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【禁門の変(蛤御門の変)】
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「朝敵」の隠し球
慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦い後。
徳川慶喜と共に、松平容保は大坂城から急遽立ち去ることになりました。
小姓頭である浅羽忠之助は、容保が忘れたある書状に気づき、あわててそれを持ち出すと主君を追いかけてゆきます。
浅羽が届けた書状を、容保は竹筒の中に入れて、それからは常に身につけ、持ち歩くようになりました。
明治26年(1893年)に59才で亡くなるまで、その習慣は続いたのです。
そして……。
時は流れて、明治31年(1898年)。
かつて会津藩の家老であった山川浩は、肺結核が悪化し、死の床にありました。
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「健次郎、あどのごどは、にしに託した……松平家のこどを頼む。それと、なんとしても殿の汚名を……雪がねばなんねえ……あれを必ず世に出すんだ、頼んだぞ……」
「あんつぁま、あどのごとは任してくんつぇ」
浩は、弟の健次郎に、会津藩の名誉回復を託しつつ、息を引き取りました。
享年54。
山川健次郎は兄の跡を継ぎ、主君・松平容大(かたはる)の世話をする家政顧問となりました。
そこで山川が直面したのが困窮です。
子爵の家とは名ばかりで、みすぼらしい暮らしぶり。援助しようにも、山川にだって金はありません。
仮に金が入っても、みな会津復興のために使ってしまいました。戊辰戦争以降、金銭的に余裕があったことなど一度もありません。
山川家がいよいよ困った時に頼る手段はカンパです。
しかし、朝敵の家を庇う人などおらず、どうにもうまくいきません。
「なじょしたらよかんべ……」
そう悩んでいた山川の脳裏に、打開策がひらめきます。
山川は松平邸に、長州出身の陸軍中将・三浦梧楼を招きました。
三浦は長州藩出身ですが、藩閥政治には批判的。
かねてより、山川兄弟とは気が合う人物です。
「昔はいろいろなごどがありました。兄の浩は、会津が京都で何をしていだが、まどめておりやして」
「あの頃は、お互え、えろいろあったね。わしは、会津の君臣が一矢乱れず行動いちょったことに、感銘を受けちょったもんじゃ」
「んだなし。実は、先ほど申した本には、容保公が先帝から賜った宸翰(天皇直筆の書状)と御製(天皇が詠んだ和歌)を載せようと思っております」
「まさか、そねえなことが!」
三浦はそう言い、絶句しました。
「信じていただけねえのでしたら、ご覧になっていただきましょう」
山川は主家から、宸翰と御製を借りてきました。
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それこそ、容保が肌身離さず身につけてきた、竹筒の中身であったのです。
【宸翰】
堂上以下陳暴論不正之所置増長付痛心難堪
下内命之処速ニ領掌憂患掃攘朕存念貫徹之段
仝其方忠誠深感悦之餘右壱箱遣之者也
文久三年十月九日
堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり
【意訳】朝廷で、暴論を展開し、不正な処置を行い増長する者がおり、朕は胸を痛め、耐えがたいほどであった。密かに命をくだしたところ、速やかに処置して、心痛のもとを追い払ってくれた。朕の思いを実行してくれて感謝している。そなたの忠誠には感激した。この御製を感謝の気持ちに贈るものである
文久3年十月九日
【御製】
たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心をよろこひてよめる
・やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ
・武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて
【意訳】この大変な時勢において、武士の忠誠を喜び詠んだ歌
・公家の柔らかい心も 武士の勇猛な心も 根は同じ相生の松のようなものです 枯れぬ松葉のように ともにこれからも栄えてゆきましょう
・武士と心を合わせることで 岩のように堅い状況も打破できるはずです 今味わっている辛い気持ちもいつかよい思い出となるでしょう
なぜ会津藩は君臣一糸乱れぬ行動を取れたのか
三浦は、長年の疑問が氷解しました。
『なぜ会津藩は君臣一糸乱れぬ行動を取っていたか』
その源がこの【宸翰】であり【御製】であると、理解したのです。
「山川さん、こりゃ……世におったさんようお願いできんか。これが出れば、大変なことになる! 会津の殿にゃあ、まことに気の毒なことをした。どうか、このとおりじゃ!」
「ほだごど言われましても。ところで、松平家の援助を政府に再三願っでおるのですが、どうにも芳しくねえのでして。朝敵に渡す金なぞねえのは、わがるのですが、どうにかならんもんでしょうか」
「松平家が大変なこたぁようわかった。わしから上に、よう伝えちょくる!」
「ありがてえごとです」
三浦はこのことを、土佐藩出身の宮内大臣・田中光顕、政府中枢に相談しました。
そして大変なことになりました。
「そねえなんを、世に出したらならん!」
かくして要求は通り、松平家のために政府から3万円が下賜されることになったのでした。
しかし山川の心境は複雑だったことでしょう。
病床にあった松平容保は、この宸翰と御製を山川浩に見せ、必ずや世に出して欲しいと訴えていたからです。
山川兄弟は、その容保の願いを叶えるため、活動してきました。
しかし、背に腹は代えられぬ。
いつかきっと、この宸翰と御製は世に出ることでしょう。その日まで、耐え抜くことにしたのです。
長州を憎み会津の忠義を信じていた
ではなぜ、政府は山川の要求を呑んだのでしょうか。
そこには
【孝明天皇が長州藩を憎み、会津藩の忠義を信じていた】
と書いてあるからです。
それまで散々、天皇のために尽くしたのは長州藩であり、会津藩こそ天皇に楯突いた朝敵であると標榜してきた以上、それをひっくり返されるのは困ることでした。
しかし、明治37年(1904年)元会津藩士・北原雅長(神保修理の弟)が『七年史』を刊行。
その中で宸翰と御製の内容を発表します。
北原は「不敬罪」(天皇を侮辱した罪)で拘留されてしまいました。
しかし明治39年(1906年)。
『孝明天皇紀』が出版され、ここでも宸翰が明るみに出ます。
「こうなったら、もうよかんべ」
山川も、もはや隠し通す意味がないとして、兄の著作に大幅加筆した上で明治44年(1911年)、『京都守護職始末』を世に送り出したのでした。
★
「八月十八日の政変」と、それと連動した「禁門の変」については、孝明天皇が何を考えていたのかが判明しないと、わかりにくくなります。
大抵のフィクションではその辺りがボカされてしまうため、
「どちらがより天皇に近いか、どっちもどっち」
「要するに勢力争いでしょ」
というような結論にもなりがちです。
しかし、実はがっちりと背後に孝明天皇の意志があった――それを把握していたほうが、随分わかりやすくなるのではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『吉田松陰 久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』(→amazon)
『国史大辞典』
他