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【ジュール・ブリュネ】
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日本に残留し榎本武揚らと共に
一年の日本暮らしですっかり情が移ったのか、責任感からか、あるいは両方の理由から。
ジュールらは日本残留を決めました。
フランスに退役届などの書類を送り、シャルルにも度々手紙を書いています。
そしてイタリア公使館で行われた仮装舞踏会に侍の格好で参加し、部下のアンドレ・カズヌーヴと一緒にそのまま脱走して榎本武揚らに合流、箱館戦争へ加わりました。
もしかすると、土方歳三とも接したかもしれませんね。
ジュールが日本語を話せたかどうかはわかりませんが、少なくとも榎本は英語やオランダ語を習っていましたから、ジュールがどちらかを話せれば通訳をしてくれた可能性もあるかと。
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こうして、フランス軍を辞めてでもジュールらは積極的に幕府軍へ協力しましたが、1869年6月に五稜郭が攻略され、榎本たちとともに新政府軍へ投降を決めます。
その後、6月20日に離日しました。
フランスに帰国した後は、予備役を経て1870年普仏戦争で陸軍に復帰しています。ちゃんと書類を提出していたのが功を奏したようです。
その後も日清戦争で日本側に貢献して勲章を授与されたり。
フランスに留学してきた日本陸軍の軍人を世話したり。
日本との繋がりは続いていました。
フランス海軍だったウジェーヌ・コラッシュ
ジュールと一緒に脱走したアンドレは、明治時代に再来日し、明治政府に軍馬改良のアドバイスを行っています。
戊辰戦争以前、ナポレオン3世が幕府にアラビア馬(サラブレッドの先祖の一種)を贈ったことがあり、戦後に所在がわからなくなってしまったため捜索を任じられたのです。
そのために東北各地を旅していた最中、1874年(明治七年)に病に倒れ、福島県浪江町で亡くなったといわれています。
また、軍事顧問団とは別ルートで幕府軍に参加したフランス人が他にも数名いたことがわかっています。
足跡がある程度判明しているのは、フランス海軍所属だったウジェーヌ・コラッシュです。
乗艦していたフランス艦隊の船がたまたま横浜に停泊していたとき、戊辰戦争の話を聞き、友人のアンリ・ニコールとともに脱走してジュールとともに函館へ向かった……という、なかなか度胸あるやり方でした。
そして海軍を作って新政府軍に対抗と考えていたところ、幕府軍の最大の軍艦・開陽丸を事故で失ってしまったため、「新政府軍の船にこっそり乗り込んで奪う」というダイナミックな計画を立てました。
新政府軍の船が宮古湾へ停泊しているところを狙いましたが、やはりこんなに大胆な作戦はうまくいきません。
かえって自軍の貴重な軍艦を失ったり、死傷者を出してしまい、そのまま投降することになります。
新政府軍の船を奪おうとしたからか、同じく投降したジュールとは違い、ウジェーヌは罪人として扱われ、死刑を言い渡されました。フランスとの紛争を避けるためか、すぐに釈放されていますが。
その後はフランスに帰国しましたが、ジュールたちと違って退役の意志を本国に伝えていなかったため、一時は軍をクビになってしまいました。
しかし、ほとぼりが冷めてから普仏戦争時に陸軍へ入っています。
古巣であるはずの海軍ではなかったのは、やはりわだかまりや他の問題があったんですかね。
ただ単に陸軍の兵数不足かもしれませんが。
明治政府もフランスの陸軍力は一定の時期まで評価しており、明治時代になってから二回軍事顧問団を迎えています。
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長月 七紀・記
【参考】
『幕末最強の軍艦 開陽丸と塩竈』(→link)
鈴木明『追跡―一枚の幕末写真』(→amazon)
ジュール・ブリュネ/Wikipedia
ウージェーヌ・コラッシュ/Wikipedia
アンドレ・カズヌーヴ/Wikipedia