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【大山綱良(格之助)】
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泥沼と化した戊辰戦争
次に大山の名前が知れるのは、慶長4年(1868年)の戊辰戦争です。
このときは奥羽征討軍下参謀として、東北諸藩の鎮定に向かいました。
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大山が請け負ったのは、秋田藩です。
秋田藩には、奥羽越列藩同盟への加入を勧める仙台藩からの使者が来ていましたが、大山がこの使者を殺害。
秋田藩は西軍につくことになりました。
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このときの大山は、長州藩の世良修蔵とセットで語られることが多いようです。
仙台に向かった世良は、傍若無人な振る舞いをして反感を買います。
しかも大山宛に送った密書の内容が、仙台藩士たちに知られてしまったのです。
「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」
「奥羽は皆敵だからぶっ殺す」
とまぁ、なんとも物騒な内容。
激怒した刺客によって殺されてしまい、奥羽の戊辰戦争は泥沼へと突き進んでゆきます。
庄内方面を転戦した大山は、庄内藩の反撃にあい苦戦。
戊辰戦争においては数少ない、西軍としての敗北を喫しました。
どうにも戊辰戦争での大山は、世良とセットで語られるためか、評価が辛くなるようです。
当初の予定では、下参謀は大山と世良ではなく、黒田清隆と品川弥二郎でした。
そのため、
この二人ならもっとマシだったのでは?
泥沼に陥られなかったのでは?
と思われてしまうのです。
おまけに味方からも「大山と世良は駄目だよなあ」と言われていた部分がありまして……。
大山も世良も、誇張されて悪く言われている一面があり、そこは冷静に考えた方がよさそうです。
鹿児島県令として西郷らに協力を続け
明治維新後の明治7年(1874年)、大山は鹿児島の初代県令となりました。
県令は、その県とゆかりが深い者以外が選ばれていましたが、鹿児島だけは例外。
この例外措置を、政府は悔やんだことでしょう。
県令時代、大山は薩摩藩時代の公文書を焼却してしまい、歴史研究に打撃を与えます。
しかも大山は、政府から県令に任じられていたにもかかわらず、政府の意向を無視しました。
その心情は、新政府に批判的であった西郷寄りであったのです。
西郷の私学校の費用は、ほとんどが県費でまかなわれました。
大山は、中央から任じられた県令というよりも、桐野利秋と並ぶ西郷の幕僚のような状態。
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鹿児島の士族の状況もよく把握しており、西郷から信頼されていたのです。
そして、西南戦争以前の鹿児島県は、ほぼ独立王国のような状態となってしまい……それが、西南戦争へつながる大きな要因となります。
実際、戦争の最中も、彼は資金を提供し続けました。
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むろん敗戦に終わったからには、彼とて無事では済みません。
西郷に味方した罪に問われ、明治10年(1877年)9月30日、長崎で斬首。
享年53でした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『国史大辞典』
奈良本辰也『明治維新人物辞典 幕末篇』(→amazon)