こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【『徳川慶喜公伝』】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
駿河・宝台院で君臣再会す
栄一は、徳川昭武から慶喜に宛てた書状を託されています。
フランスで見聞したことや昭武の気持ちを語るべく、駿府・宝台院の慶喜へ。
謹慎中の慶喜は幕臣との面会を避けていたものの、幕末三舟や新門辰五郎らは見舞いを済ませておりました。
そして慶応4年(1868)10月、栄一も慶喜への面会がかないます。
古く小さな寺院の、狭苦しい部屋に通される栄一。畳は粗末で真っ黒に汚れていました。座布団すら敷かず汚い畳に、慶喜は座っていました。
そんな慶喜の姿を見た栄一は胸が潰れそうになります。
涙がこぼれるばかりで情けない姿に言葉も出ない。
なんとか挨拶をしても、口をついて出てくるのは無念の愚痴ばかり。
けれども慶喜は冷静で、一切の動揺も見せません。
「昔の話はよい。フランス留学中の昭武のことを話したいというから、そなたと会ったのだ。その話をせよ」
そう言うと、相槌も打たず、栄一の話を冷静に聞いていたのです。
これを、凡人には真似できぬ態度であると、栄一は感銘を受けました。
『青天を衝け』では栄一がスラスラと語り、和やかで明るい雰囲気ではありましたが、あれはあくまで劇中の話でしょう。
このとき水戸では、昭武が栄一の帰りを待っていました。
しかし栄一が水戸に復命しようとすると、慶喜は栄一の役職を解こうとしたのです。
そのうえで水戸の昭武には別人を派遣すると告げ、静岡に留まるように命じてきたのでした。
栄一は「実の弟になんと冷たい態度なのか!」と腹を立ててしまいますが、同時に考えてもみました。
昭武と親しい栄一が、嫉妬による危害を加えられることがないよう配慮したのだと。ただし、あくまで本人の弁明であり、他の事情も考えねばなりません。
当時の水戸藩では、武田耕雲斎の孫・武田金次郎が天狗党を率い、敵対した諸生党を白昼堂々襲撃していました。
栄一は、藤田小四郎はじめ、天狗党の面々と親しい仲です。
しかし【天狗党の乱】では、助命嘆願のため上洛した薄井龍之の嘆願を黙殺していました。
そんな栄一が水戸に足を踏み入れたら多方面から怒りをぶつけられ、最悪の場合、落命しかねません。
結果、栄一は辞職を固辞しながら、慶喜の側にしばらく留まることとなります。
帰国時点で幕臣としての俸禄はない。
実家にいても戊辰戦争の影響があり、殺伐としている。
みなし養子とした妹・ていの夫・平九郎は切腹により死亡。
妻の実家である尾高家は没落。
ドラマでは「百姓でも商いでもやって暮らしていく」と未来明るいように語っていましたが、実際は行き場所を失い、駿府にとどまるしかない事情も透けて見えてきます。
慶喜は謹慎と趣味の日々へ
明治2年(1869年)――慶喜の長い余生が始まりました。
静岡に移住した慶喜は、畑仕事をするわけでもなく、趣味に生きました。
写真を撮影し、自転車に乗り、絵を描く。
江戸時代までは日本画を習っていたものを、画材まで作って油絵を描き始めたのですから、凝り性です。
どういうわけか投網に凝り出した時は、わざわざ漁師に習いに行ったとか。
そんな趣味に没頭する慶喜を見て、幕臣たちはこう評したものです。
「貴人、情けを知らずだな……」
気持ちはわからなくもありません。
明治以降に撮影されたコスプレじみた慶喜の肖像写真を見ると、一体この人は何なのかと思わなくはありません。
しかも、地元での態度も悪かった。
自転車通行で田畑を荒らしても、謝罪することすらない。
仕方なく家臣たちが代わりに頭を下げなければなりません。
駿府には家族揃って餓死するほど困窮した元幕臣もいるというのに、慶喜は女中との間に10男11女を儲ける。
いかがなものか?と思う行動ばかりです。
女性スキャンダルが痛すぎる斉昭&慶喜親子 幕府崩壊にも繋がった?
続きを見る
謹慎後の慶喜は、喜怒哀楽を見せぬ態度であったと回想されています。ボーッとしていることもよくありました。
考え事に耽っていたのでしょう。幕臣が訪ねてきても面会しないことも多く、やっと会えても一言言葉をかけるだけだったと伝わります。
往時を語るわけでもなく、政府批判もしない。
幕臣たちが、幕政回顧や明治政府批判をしていたのに対し、慶喜は沈黙を保ち続けました。
代わりに打ち込んだのが趣味の世界だったのですね。
そこでにわかに浮上してくるのが渋沢栄一です。
彼はそんな慶喜の元を何度も訪れました。
面会を拒まれることも少なく、明治11年(1878年)の訪問時は、永井尚志が拒まれたのに、自分が面会できたと書き記しています。
慶喜がポーカーフェイスになっていた意図は推察できます。
明治時代初期は、不安定な時代でした。
士族の反乱や暗殺が続発し、世の中は安寧からはほど遠い時代。
西南戦争では、かつて新政府軍を率いた西郷隆盛が戦死する大変な時代でした。
もしもそんな世で、将軍が号令をかけたら、どれほどの混乱が起こったか?
慶喜には「そんな気がない」ことを新政府や幕臣に向けて示す必要はあったでしょう。
ゆえに静岡で趣味に没頭し続ける意味もあったと思います。
赦免される慶喜
実際、明治政府も、旧幕府の復権を警戒していました。
大政奉還後に戊辰戦争を強引に引き起こしたのも、武力で潰しておく必要があると感じたからでしょう。
しかし、です。
明治5年(1872年)になると、慶喜は新政府により従四位を叙されるのです。
旧会津藩主・松平容保、旧桑名藩主・松平定敬ら、幕臣たちも罪を免じられてゆきました。
慶喜復権の流れを、ざっと年表チャートで示しますと。
明治13年(1880年)正二位に叙される
明治17年(1884年)華族令公布にともない、徳川宗家当主・家達に公爵授与。慶喜四男・厚に男爵位授与
明治21年(1888年)従一位に叙される
明治30年(1897年)静岡から東京へ移転
明治31年(1898年)明治天皇に拝謁
皇太子と会食し、宮中に招かれ、ついには徳川分家として従一位・公爵とされた慶喜。
明治30年代ともなれば、慶喜は見事に復権していたのです。
その証拠と言いましょうか。
明治35年(1902年)、慶喜の公爵授爵に伴う各種団体の祝賀会では、旧幕臣たちが勢揃いする豪華なものとなり、ちょっとした同窓会が開かれたかのようでした。
※続きは【次のページへ】をclick!