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【岩倉具視】
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条約破棄&攘夷で和宮降嫁を認める
安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺。
すると事態はいったん落ち着き「幕府と協調すべき」という意見の公家が少し優勢になりました。

「桜田門外の変」を描いた様子/Wikipediaより引用
そこで幕府側から「和宮様に将軍・徳川家茂へご降嫁いただけませんか」という“お願い”が届きます。実質的には火種ですが。
孝明天皇はまだ腹の虫が収まっていない上、「和宮は既に有栖川宮熾仁親王との婚約が整っている」として断りました。
和宮本人も「異国との条約を破棄するなら」という事実上不可能な返事をしています。
そこで岩倉は上申します。
「幕府が下手に出てきたのは、人心が離れつつあるのを自覚しているからです。
ここは一つ貸しを作り、“幕府は朝廷の下で政治を行っている”という形を世間に知らしめるべきではありませんか」
孝明天皇はこれを容れ「ならば条約破棄と攘夷をするという条件付きで、和宮の降嫁を認めてやろう」と結論を出します。

和宮親子内親王/wikipediaより引用
かくして岩倉は孝明天皇からの勅書を預かって、和宮の東下に随行しました。
岩倉は老中とやりあうには家格が足りなかったので、勅使という役割を与えることでナメられないようにしています。
この時点で相当の信頼を得ていたことがうかがえますね。
長州は公武周旋役 薩摩は京都守護
孝明天皇の狙い通り、岩倉は老中たちと対等にやりあうことができました。
岩倉は「昨今いろいろと不穏な噂が立っているが、陛下は、将軍が直筆で清書を出すなら勘弁してくださるとのことです」(超略)と主張し、その通りにさせ、その年のうちに京都へ戻っています。
この間、岩倉は母を亡くしたため参内を遠慮し、もう一人の勅使に家茂の誓書を持って行ってもらったのですが、孝明天皇はご満悦だったとか。
ただし、これですんなりとはいきません。
翌年、長州藩主・毛利敬親が「航海遠略策」という提案書を朝廷に提出したのです。

毛利敬親/Wikipediaより引用
「一度結んでしまった条約を破棄したり、闇雲に異人・異国を排除してはかえって攻めこまれてしまいます。いっそこちらから海外の技術を学びに行き、より高い技術力と皇室の威光を外に示すべきです」
そんな趣旨の文書であり、岩倉がかつて提案したよりももう少し積極的なものでした。
孝明天皇が一番嫌がったのは「異国によって日本の権威が損なわれる・荒らされること」だったので、この提案を高く評価し、長州へ「公武周旋役」という役を与えます。
これに対し薩摩は焦り「このまま放置しておくと皇室がヤバいですよ!」と朝廷をあおって、京都守護の役目をもぎとりました。京都所司代、涙目。
佐幕派と見られて「蟄居・辞官・出家」の憂き目に
長州vs薩摩の対立が顕在化していく中、岩倉は和宮降嫁に動いたことなどから佐幕派とみられていきます。
周りの公家も孝明天皇に「アイツ、幕府のシンパですよ」(超訳)と言われてしまい、蟄居・辞官・出家を命じられてしまいました。
そこで粘っても味方はいない、と判断したのでしょうか。
岩倉は他意がないことを示すため、大人しく政治から身を引きます。
それでも不満に思った尊皇派の何人かは、流刑を主張したり、岩倉に闇討ちの果たし状を送りつけたりとゴネ続けるんですけどね。というか闇討ちって予告したら意味がない気がするんですが……。
この後、岩倉は五年ほど蟄居します。

岩倉具視が蟄居中に暮らした旧宅/wikipediaより引用
そしてその間、禁門の変や第二次長州征伐など、世情は大きく動きました。
更には孝明天皇も亡くなり、明治天皇が即位した際には大赦された者も複数おりましたが、岩倉はまだまだ許されません。
赦免されたのは、実に大政奉還の後のこととなります。長っ!

『大政奉還図』邨田丹陵 筆/wikipediaより引用
政界に復帰した岩倉は、新政府の中で生き残りを狙う徳川慶喜と政争を繰り広げます。
慶喜は「幕府がなくなっても、今まで260年も実務から離れていた朝廷がうまくやれるわけはない。きっと徳川家や武家を頼ってくる」と考えていました。
岩倉はこれを見抜き、慶喜や徳川家に特権を持たせないような体制づくりを試みたのです。
しかし、鳥羽・伏見の戦いによって戊辰戦争が始まってしまうと、やられっぱなしでいるわけにはいきません。
岩倉は徳川家征伐に賛成し、新政府は仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)を総大将として錦旗を持たせて征討軍を起こします。
進退窮まった慶喜は、大坂から江戸へトンズラ。

大坂から船で脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年)/wikipediaより引用
武家の将軍として恥辱としか言いようのない逃亡劇を演じていまいます。
一方、岩倉の発言力は大いに増し、「勤王の志がある者だけ残れ!」と啖呵を切ったとか。そして……。
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