フェリクス・マンガ・ヤシェンスキ

絵・小久ヒロ(左)葛飾北斎(右・国立国会図書館蔵)

文化・芸術

日本文化を愛し“漫画”と呼ばれたフェリクス・マンガ・ヤシェンスキ

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西欧絵画にはない独自の技法、そして思想

ヨーロッパの日本芸術愛好家にとって 最も人気があったのは北斎漫画でした。

検索して頂くとわかるのですが、北斎漫画は主に庶民の日常を描いており、親しみやすい内容です。

日本人からすると見慣れた感があるのも、もともとは北斎が始めたからでありまして・葛飾北斎漫画/国立国会図書館蔵

葛飾北斎漫画/国立国会図書館蔵

ヤシェンスキは、浮世絵を少し違った目線で見つめていました。

構図や技法。

背景の余白。

叙情的な内容など。

西欧絵画にはない独自の思想、そしてまた市民が抱く作者への尊敬と崇拝の念に感動し、これこそが「国を愛する心の表れ」なのだと感じていたのです。

なぜか。

ヤシェンスキが子供時代を過ごした頃の故郷ポーランド立憲王国では、前述のようにロシア化政策が着々と進み、西側プロイセン領(元ポズナン大公国)でもドイツ化が進められ、ポーランド人排斥運動が起きていたのです。

ポーランド市民たちは、早期の独立を諦める一方、文化面では祖国への愛国的な動きをするようになっていました。

その実例として、唯一自治が認められていたオーストリア領クラクフでは、愛国的歴史画が隆盛を極め、ヤン・マテイコ(1838~1893年)などが活躍していました。

このような時代を生きたヤシェンスキの願いは やはり祖国「ポーランドの」芸術を高揚させることだったのです。

ヤシェンスキは強く感じておりました。

浮世絵という形で日本人が示した心こそが、真のポーランドの国家様式芸術の想像を導くもの――これをポーランドに植えつけたい。

彼は日本芸術をポーランド人に直に紹介することで、その心を広めようと努め始めるのです。

ワルシャワへ戻ったヤシェンスキは、新聞や定期刊行物に論文を次々に発表。

またパリ時代にフランス語で書いていた本もワルシャワで出版しました。

なんでフランス語で出版やねん!

思わずそう突っ込みたくなりましたが、もしかしたら当時はポーランド語が禁止で、ロシア語での出版が嫌だったのかもしれません……って、気づかなくてごめんよヤシェンスキ。

※この本は当然ワルシャワでは売れなかったもののフランスで売れたとのこと

そして彼はそのうち、ニックネームだった「マンガ」を伴って「フェリクス・マンガ・ヤシェンスキ」と呼ばれるようになっていきました。

 

ポーランド芸術の高揚のために日本芸術を広めよう

ヤシェンスキは、どう具体的に、どのような文化を生み出したいと願ったのか?

ポーランド人にも浮世絵を描かせたかったのか?

答えは否。

別に浮世絵そのままのような庶民のマンガ文化をポーランドに広めたかった訳ではなく、人々が今まで触れたことがなかった遠い国の芸術・思想を広め、刺激を与えることで新しいポーランド芸術が生まれてくることを期待していたようです。

ちょっと複雑な思考回路ですよね。

芸術も職人技も最初は見て盗んで真似て、新しい芸術に昇華させるものです。

その概念だけを言葉にしてもなかなか伝わらないでしょう。

実際、彼の願いは、当時のポーランド市民にはなかなかうまく伝わらず、日本芸術の広報活動も最初のうちはうまくはいきませんでした。

あまりの物珍しさゆえに、一部の熱狂的ファンだけに受け入れられ、一方で、予備知識のない人たちからは反感を買ったり、ときには嘲笑されたりしています。

まぁ、こってりした写実的油絵などを良しとしてきた保守層からしたら

「日本の浮世絵? ざけんな。色が薄すぎて何描いてっかわからんわ」

ですよね。想像はつきます。

しかし1901年末。

拠点を例のオーストリア領クラクフに移動してから状況が一変するのです。

 

ポーランドのために美術作品を収集

ヤシェンスキは「ポーランドのために美術作品を収集する」と心に決め、自分の日本芸術コレクションをクラクフの国立博物館へ寄贈しようと考えます。

書類の調整などに時間がかかる間、彼はコレクションを置いている部屋をクラクフの知識人や芸術家に開放し、日本芸術の世界に触れられるようにしていました。

すると、日本文化に影響を受けるポーランド人画家が増えていきました。

そして第一次世界大戦が終わると、更に状況は好転して参ります。

ロシア支配がようやく終わり、1918年にポーランド共和国が成立したのです。

1920年代には、ヤシェンスキのコレクションはクラクフの国立博物館へ移されました。

この時の日本芸術作品の数は約6000点、うち木版画は約4500点でした。

膨大な数ですよね。

少し返して欲しい……というのは冗談で、日本の芸術が欧州へ伝わる拠点となったのです。

ああ、ようやくこれで一つの思いを遂げられた!

ロシア支配が終わった今こそ、ポーランドの芸術文化の水準と地位の向上を――。

かくして日本文化をこよなく愛したヤシェンスキは、1929年この世を去りました。

しかし、話はこのままでは終わりませんでした。

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