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【司馬江漢(鈴木春重)】
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自ら死亡通知書を出して引きこもるが
こうして和・漢・洋の絵画について学んだ江漢は、さまざまな技法を使いこなしてそれまで日本にはなかったような作風を生み出しました。
前述の絹に描いた絵は西洋的な色彩でありながら日本画の趣も強く残しており、『寒柳水禽図』などは「カラーになった水墨画」とでもいうのがふさわしい独特の作品になっています。
その後、技術を追い求めるうちにどんどん人付き合いが煩わしくなり、同時にそれまで親しかった人が次々に亡くなっていったため、自身の晩年にはなんと
【自分の死亡通知を出して】
まで引きこもっていたそうです。
後々どうしても外出する用事ができたときにバレたのですが、そのときでさえ「死人は声を出さぬ」と言っていたとか。いや、出しとるがな。
人からの縁でさまざまなことを学んだ江漢ですから、老年に至って「これ以上人と付き合っていても、修めるまで体が持たないだろう」なんて考えたかもしれませんね。
死亡通知を出したのは亡くなる五年前=67歳のときなので、当時としては”そろそろ”な年齢ですし。
好きなことを純粋に追い求め、自分のものにし、当初の目的である「歴史に名を残す」ことまで全てやってのけたその生き方、とても眩しくうらやましいですね。
現代人にとっても学ぶところの多い人ではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本大百科全書
司馬江漢/wikipedia