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江戸

大岡越前守忠相が自ら裁いたのは一件だけ? 吉宗に抜擢されて表舞台へ

元文元年(1736年)の8月12日、大岡越前守忠相(ただすけ)が寺社奉行に任命されました。

寺社奉行というのは、江戸幕府の役職のひとつ。

「奉行」とつく役職はほかに勘定奉行と町奉行がありますが、その中でも筆頭格とされていました。

身分の低い武士や旗本が就任する町奉行・勘定奉行と違い、譜代大名(徳川家にずっと仕えてきた大名)から任命されることになっていたのです。

寺社奉行を務めた後は、大坂城代(大坂城の管理人)や京都所司代(京都周辺の仕事をする役)になることもあり、出世コースの入り口ともいえる役職でした。

大岡忠相/wikipediaより引用

 

紀州藩相手に一歩も引かず吉宗のお眼鏡に

忠相はもともと大名ではなく、旗本の一人に過ぎませんでした。

それが寺社奉行になるなど特例中の特例で、そもそも任命したのも、あの徳川吉宗です。

自分も御三家から将軍になるという異例の歩みで、

「役に立たねえ形式なんぞクソ食らえ!」

というスタンスですから、家柄無視で、適材適所の人材を選んだのでしょう。

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その理由と思われるエピソードもあります。

忠相は吉宗が紀州藩主だったころ、隣の天領(幕府直轄領)伊勢山田で奉行をしていました。

あるときここで、伊勢山田と紀州藩それぞれの農民の間にいさかいが起こります。

紀州藩は御三家の一員。

普通の奉行であれば、「エライお家の領地の人に無茶言うんじゃない!こっちが悪いことにしとけ!」とへーこらするところです。

しかし、忠相はそうはしませんでした。

奉行としてきちんと間に入り、双方の言い分や経緯を聞いたうえで、なんと紀州藩の農民を裁いたのです。

職務に忠実だっただけと言えばそれまでですが、これはなかなか度胸がなければできないこと。

それを伝え聞いた吉宗が「今時珍しく、真面目に仕事をやるヤツだ」と気に入り、将軍職に就いた直後に忠相を江戸の町奉行に任じるなど、いろいろな仕事を任せるようになっていたのです。

しかも、抜擢後も、吉宗の意見に反対を貫くこともあり、実際に骨のある方でもありました。

 

町火消し

忠相は吉宗の期待によく応えました。

吉宗と言えば【享保の改革】ですが、その一環である「町火消し」も忠相が作ったそうです。

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当時の(も?)江戸は超人口過密社会。

人は多く、道は狭く、木造家屋がひしめき合っていました。これでは一度火事になったら、あっという間に火の海になってしまいます。

そこで、延焼を防ぐ為に隣の家を壊す、という方法が生み出されました。

この作業に当たったのが町火消しの男たちです。

炎を前にして威勢よく立ち働く彼らは、粋な江戸の名物男として非常に人気がありました。中には特定の殿方をごひいきにしている女性もいたとか。

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