光格天皇/wikipediaより引用

江戸時代

知られざる名帝・光格天皇~幕府に引かないスタンスが明治維新へ繋がる?

江戸時代の天皇といえば、やはり幕末関連で出てくる孝明天皇が有名でしょうか。

むしろ、それ以外の方についてはほとんど知らない人が多いですよね。

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孝明天皇も含めて、現在の皇室の直接的なご先祖様は江戸時代中期にいらっしゃいました。

しかも幕府の権勢著しい中、勇気ある行動を起こしています。

今日はそんな「影の名君」とも呼べる方が主役です。

天保十一年(1840年)11月18日、光格天皇が崩御されました。

先代の後桃園天皇に男子がなかったため、血筋は離れていましたが天皇として選ばれました。

後桃園天皇の娘である内親王と結婚することも条件の一つだったので、歳の近い光格天皇に決定したんだそうです。

身分の高い人にはよくある話で、出世と同時に奥さんが決まってしまうって庶民から考えるとスゴい話ですね。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

即位早々、飢饉が起きる

まあそれはさておき、この方は即位早々不運に見舞われます。

江戸四代飢饉の一つ・天明の大飢饉にぶち当たってしまったのです。

江戸時代は、災害のオンパレードでしたが、この飢饉はその中でも最大規模のものでした。

冷夏だけでも飢饉になりうる時代だというのに、各地の火山が噴火して日が差さなくなり、全国的な冷害になってしまったのです。

あまりにも死者が多かったため、どこの藩でも正確な数を計りかねる有様で、米屋への打ちこわしも頻発しました。

特に酷かったのは東北地方であり、京都を始めとした西日本でも影響は免れません。

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人々は「上様に何とかしてって伝えてよ!」と京都所司代(京都にあった幕府の出張所みたいなところ)に訴えますが、この頃には所司代の権力が大幅に低下していたため、具体的な対策をすることができませんでした。

なぜかというと、ほとんどの仕事が江戸にいる老中の管轄になってしまっていたため、ほとんど名ばかりの役職になってしまっていたからです。

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だから京都守護職ができた

現代からすれば、それで仕事が滞ってたら意味ないだろとも言いたくなります。

当時は誰もそんなことを気にしていなかったのでした。

幕末に京都守護職(例:松平容保)が作られたのは、所司代が有名無実になっていたからでもあります。

無理やり例えるとすれば、融資の相談をしたくて地元の銀行窓口に行ったのに「私には権力がないので、本社のお偉いさんに言ってください」と門前払いを食らったようなものでしょうか。

そんな扱いされたら、本社じゃなくて別の銀行に行きますよね。

当時の市民も同じように考えて、幕府ではなく別のところにお願いに行ったのです。

それが天皇のおわす御所でした。

もちろん中には入れません。

門のあたりで天皇の御座所の方角へ向かってお祈りをし、賽銭を投げるという人々が出始めたのです。

 

天皇に助けを求める民衆(○○年ぶり○回目)

賽銭を投げる人――そんな突発的イベントが始まってから10日後には7万人を超える民衆が集まったとか。

京都だけではなく、大坂や近江など近隣諸国から天皇にお祈りをしにくる人が来ていたのです。

来る人が日に日に増えたということは、門番も無碍に追い返したりはしなかったのでしょうね。

京都の町はこれらの人々で溢れかえり、光格天皇の耳にも達しました。

真っ先に行動を起こしたのは後桜町上皇。

この方は2代前の天皇でした。

現時点で最後の女帝で、上皇になってからは幼かった光格天皇の指導にあたるなど、後見役を果たしていました(親子や兄弟関係ではなく、曽祖父が一緒という親戚)。

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なんせ光格天皇はこのとき10歳を過ぎたばかり。

当然市民もそれを知っていたでしょうから、いかに幕府が頼りなく思われていたかということがわかります。

ちなみに当時の将軍は10代目の徳川家治で、ちょうど40歳。

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不惑を過ぎた将軍より、天皇とはいえ10歳の子供を信じたってどういうことなのさ。

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