人生において【マジメな性格】は間違いなく美点でしょう。
しかし、あまりに過ぎると周りから煙たがられるもので、今回はその中でも日本屈指では?という方に注目です。
1829年6月14日(文政12年5月13日)、寛政の改革でお馴染みの松平定信が亡くなりました。
その印象については「容赦なく庶民の財布を締め上げて失敗した人」というマイナスイメージしかないかもしれません。あるいは「とにかく頭の固い人」とか。
もちろんそれでも間違いではないですが、彼の生い立ちを見るとそうなったのも仕方ないかなぁ、という気がしなくもありません。
大河ドラマ『べらぼう』でも注目度が高まってきている、定信の生涯を見ていきましょう。

松平定信/wikipediaより引用
田安家に生まれた松平定信
松平定信は、徳川御三卿の一つ・田安家の七男として生まれました。
残念ながら七人が全員無事に育ったわけではなく、上の四人は夭折してしまったため、実質的には三男扱いだったようです。
この時代では無理のないことですよね。
定信も幼い頃はいろいろと病気がちだったといわれています。
御三卿の田安家は、徳川吉宗の系統が継いだ家であり、松平定信自身も吉宗の孫でもあります。

徳川吉宗/wikipediaより引用
利発な子供として知られ、父の跡を継いだ兄・治察(はるさと)が成人しても病弱だったため、当初から「定信が次の田安家当主になるだろう」といわれていました。
事実、治察は家督を継いでから三年で亡くなっています。
しかし、松平定信がすぐに田安家当主になることはありませんでした。
その直前に徳川一門のひとつであり、白河藩主の久松松平家へ無理やり養子に出されてしまったため、しばし政治の中枢と離れることになったのです。
これは定信の高い能力と、ときの幕閣・田沼意次を堂々と批判する度胸が疎まれたからだといわれています。
飢饉で能力発揮!白河の餓死はゼロだった!?
上記の通り吉宗の孫である松平定信は、当然、徳川宗家から見てかなり近い血筋です。
五代将軍・徳川綱吉以降、たびたび後継者問題に直面していた江戸幕府としては、立派な「次期将軍候補」でありました。
この時点の将軍・徳川家治には嫡男・徳川家基(いえもと)がおりましたが、他に男子はなく、万が一……ということが考えられたのでしょう。

徳川家基/wikipediaより引用
ただ、それは他の御三家も同じこと。
特に一橋家の当主・徳川治済(はるさだ)は次期将軍のライバルとして、定信を敵視していたともいわれています。
出ましたね、治済――よしながふみ氏の漫画『大奥』では“怪物”として知られ、2023年のNHKドラマ10『大奥』でも仲間由紀恵さんがまさしく“怪演”が素晴らしく、さらには大河ドラマ『べらぼう』で生田斗真さんが日本中に衝撃を与えています。

徳川治済(一橋治済)/wikipediaより引用
ちなみに「田安家とか一橋家って何だっけ?」という方は以下の御三家・御三卿についての関連記事をどうぞ。
-

御三家と御三卿って何がどう違う? 吉宗の創設した田安と一橋が将軍家を救う
続きを見る
閑話休題。
果たして家基は家治の将軍在任中に急死し、徳川姓を名乗る者の中から、治済の長男・徳川家斉が家治の養子となり、次期将軍に確定しました。
松平定信としては残念極まりなく、田沼意次を恨むようになったとされます。
ただし、根が生真面目ゆえにグレることはなく、養子先の白河藩ではきっちり仕事に取り組みます。
その成果は天明の大飢饉(1782~1788年)で発揮されました。

天明飢饉之図/wikipediaより引用
白河藩では、あらかじめ米や雑穀などを買い込み、自ら質素倹約を実践、いざ飢饉が起きてからは領民に買い込んでおいた食糧を配給するなどして、この危機を乗り切ったのです。
日本中が苦しんだこの飢饉でも、同藩では餓死者が出なかったといわれているほどでした。
ちなみに同じ東北の米沢藩でも上杉鷹山の手腕で餓死者を出さなかったとされます。
素晴らしいですね。

上杉鷹山/wikipediaより引用
大都市・江戸では単純な質素倹約が通じず
飢饉が過ぎ去ってからも松平定信は備えを忘れません。
米以外の作物を奨励し、収穫した穀物を貯蔵するための蔵を作らせたりもしていました。
現在、白河市の名物となっている「白河そば」も、定信が「蕎麦は寒さに強いからどんどん作れ!」と言い出したのがきっかけだったそうです。
そして、その手腕を買われて、田沼意次失脚後は期待の星として幕閣へ。

田沼意次/wikipediaより引用
老中首座として寛政の改革を行うわけですが……いかんせん飢饉対策と幕府の財政では感覚が違いすぎました。
単純な話、飢饉対策は「米がなければ粟や稗を食べればいいじゃない」でも何とかなりますよね。
しかし、大都市・江戸の政治経済を担う幕府では、お金の流通が非常に重要であり、白河藩とはとても同列で考えられません。
当時すでに世界有数の超過密都市になっていた江戸では、誰かから何かを買って暮らすのが当たり前でしたので、「金を使わずに暮らせ!」と言われてもどうしようもないわけです。
禁断の借金チャラを出してしまい……
確かに、農村の復興や失業者の救済など、良い政策もやりました。
しかし、演劇や貸本(当時の図書館もしくはレンタルビデオ屋)といった娯楽や、贅沢な衣服&装飾品を禁止。
さらには違反者をとっ捕まえるのはやりすぎだったでしょう。
また、悪政の代名詞こと棄捐令もやっています。
旗本・御家人の借金をチャラにしたり、軽くして計画返済させたりするもので、当然ながら貸主からすれば大不評なやり口です。
なぜ松平定信ほどの人が、こんな誰も成功したことがない政策を実行したのか。ちょっと理解に苦しむほどです。
どうも定信という人は「こうすればウチはうまく行く!!」と思ったが最後、他のデメリットに一切気が回らないという悪癖があったように感じます。
天明の大飢饉の際も、自藩のために食料を買い込んだのはいいとして、その分、他の藩が買えなくなるわけですから、餓死者が「どこで死んだか」という点しか変わっていないわけです。
そのため世間でも悪評が上回るようになるだけでなく、将軍の贅沢まで厳しく禁じたため徳川家斉に殺意を抱かれるほど嫌われ、松平定信もまた失脚したのでした。

徳川家斉/wikipediaより引用
なお、失脚したのは寛政五年(1793年)のことで、それから約36年間も別の人生を送っています。
古巣の白河藩で働きながら、自叙伝『宇下人言(うげのひとごと)』などを執筆したりしていました。
現代の刑務所は定信の人足寄場と同じ発想
最後に。
松平定信がやったことの中で一つ、後世にも大きく役立ったものがあります。
ホームレス救済施設こと「人足寄場(にんそくよせば)」です。
ものすごく大雑把にいうと「お上が三年間だけ衣食住と体調不良の面倒を見る代わりに、ここで働いて金を貯めて、日常生活を送れるようになろう」という施設で、軽犯罪者の更生施設も兼ねていました。
仕事の内容は主に大工や農作業、手工業(縄ないやろうそく作りなど)で、経験がある者はそのまま行い、素人には指導をしてやらせていたとか。
これ、現代の日本の刑務所とほぼ同じですよね。
「社会復帰のための準備をさせる」施設であり、そういった意味では、現在の日本にも影響を及ぼしている政治家といえるかもしれません。
もちろん、人足寄場でも物資をちょろまかしたり、屁理屈をこねて開き直ったりする不届き者はいたそうなので、全てがうまくいっていたわけではないのですけどね。
現在では福祉の方面から人足寄場を研究している先生もいらっしゃるようです。なので、今後、松平定信についてもっとクローズアップされる日が来るかもしれません。
なお、定信が手掛けた【寛政の改革】については以下の別記事にてマトメておりますので、よろしければ併せて御覧ください。
あわせて読みたい関連記事
-

寛政の改革|蔦重や江戸っ子たちを苦しませた松平定信の政策とは?
続きを見る
-

御三家と御三卿って何がどう違う? 吉宗の創設した田安と一橋が将軍家を救う
続きを見る
-

江戸期以前の乳幼児死亡率は異常|将軍大名家でも大勢の子が亡くなる理由は?
続きを見る
-

『べらぼう』天明の大飢饉で殺人や人肉食の恐怖~特に奥羽が地獄絵図となる
続きを見る
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
松平定信/wikipedia
白河観光物産協会ホームページ(→link)
人足寄場における福祉的処遇(J. Fac. Edu. Saga Univ.)(→link)




