しかし、あまりに過ぎると周りから煙たがられるもので、今回はその中でも日本屈指では?という方に注目です。
文政十二年(1829年)5月13日、寛政の改革でお馴染みの松平定信が亡くなりました。
その印象については「容赦なく庶民の財布を締め上げて失敗した人」というマイナスイメージしかないかもしれません。あるいは「とにかく頭の固い人」とか。
もちろんそれでも間違いではないですが、彼の生い立ちを見るとそうなったのも仕方ないかなぁ、という気がしなくもありません。
ということで定信の生涯を見ていきましょう。
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田安家に生まれた松平定信
松平定信は、徳川御三卿の一つ・田安家の七男として生まれました。
残念ながら七人が全員無事に育ったわけではなく、上の四人は夭折してしまったため、実質的には三男扱いだったようです。
この時代では無理のないことですよね。定信も幼い頃はいろいろと病気がちだったといわれています。
なお、当時の子供がなぜ夭折してしまうのか――という点については、以下の記事に説明がございますので、よろしければご参照ください。
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御三卿の田安家は、徳川吉宗の系統が継いだ家であり、松平定信自身も吉宗の孫でもあります。
利発な子供として知られ、父の跡を継いだ兄・治察(はるさと)が成人しても病弱だったため、当初から「定信が次の田安家当主になるだろう」といわれていました。
事実、治察は家督を継いでから三年で亡くなっています。
しかし、松平定信がすぐに田安家当主になることはありませんでした。
その直前に徳川一門のひとつであり、白河藩主の久松松平家へ無理やり養子に出されてしまったため、しばし政治の中枢と離れることになったのです。
これは定信の高い能力と、ときの幕閣・田沼意次を堂々と批判する度胸が疎まれたからだといわれています。
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飢饉で能力発揮!白河の餓死はゼロだった!?
上記の通り吉宗の孫である松平定信は、当然、徳川宗家から見てかなり近い血筋。
五代将軍・徳川綱吉以降、たびたび後継者問題に直面していた江戸幕府としては、立派な「次期将軍候補」でありました。
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この時点の将軍・徳川家治には嫡男・徳川家基(いえもと)がおりましたが、他に男子はなく、万が一……ということが考えられたのでしょう。
ただ、それは他の御三家も同じこと。
特に一橋家の当主・徳川治済(はるさだ)は次期将軍のライバルとして、定信を敵視していたともいわれています。
出ました、治済――よしながふみ氏の漫画『大奥』では“怪物”として知られ、2023年のNHKドラマ10『大奥』でも仲間由紀恵さんがまさしく“怪演”が素晴らしく、日本中に衝撃を与えましたよね。
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ちなみに「田安家とか一橋家って何だっけ?」という方は以下の御三家・御三卿についての関連記事をどうぞ。
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閑話休題。
果たして家基は家治の将軍在任中に急死し、徳川姓を名乗る者の中から、治済の長男・徳川家斉が家治の養子となり、次期将軍に確定しました。
松平定信としては残念極まりなく、田沼意次を恨むようになったとされます。
ただし、根が生真面目ゆえにグレることはなく、養子先の白河藩ではきっちり仕事に取り組みます。
その成果は天明の大飢饉(1782~1788年)で発揮されました。
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白河藩では、あらかじめ米や雑穀などを買い込み、自ら質素倹約を実践、いざ飢饉が起きてからは領民に買い込んでおいた食糧を配給するなどして、この危機を乗り切ったのです。
日本中が苦しんだこの飢饉でも、同藩では餓死者が出なかったといわれているほどでした。
ちなみに同じ東北の米沢藩でも上杉鷹山の手腕で餓死者を出さなかったとされます。
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素晴らしいですね。
大都市・江戸では単純な質素倹約が通じず
飢饉が過ぎ去ってからも松平定信は備えを忘れません。
米以外の作物を奨励し、収穫した穀物を貯蔵するための蔵を作らせたりもしていました。
現在、白河市の名物となっている「白河そば」も、定信が「蕎麦は寒さに強いからどんどん作れ!」と言い出したのがきっかけだったそうです。
そして、その手腕を買われて、田沼意次失脚後は期待の星として幕閣へ。
老中首座として寛政の改革を行うわけですが……。
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いかんせん飢饉対策と幕府の財政では感覚が違いすぎました。
単純な話、飢饉対策は「米がなければ粟や稗を食べればいいじゃない」でも何とかなりますが、大都市・江戸の政治経済を担う幕府ではお金の流通も非常に大切であり、白河藩と同列では考えられません。
当時すでに世界有数の超過密都市になっていた江戸では、誰かから何かを買って暮らすのが当たり前でしたので、「金を使わずに暮らせ!」と言われてもどうしようもないわけです。
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