大永三年(1523年)6月13日は鏡山城の戦いが起きた日です。
中国地方の雄として名高い毛利元就が若かりし頃に行われた合戦であり、首尾よく勝利を収めることはできましたが、なんとも後味の悪い展開になった戦でもあります。
いったい何が起きたのか? その顛末を振り返ってみましょう。

毛利元就/wikipediaより引用
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応仁の乱でも要衝だった
戦の舞台となった鏡山城は、現在の東広島市西条町にあった山城です。
安芸を東西に分けたとき、ちょうど境界線となる位置にあり、応仁の乱の頃も東西軍の争奪戦に遭っていたといいます。
城がある地点の標高はおよそ100mほどだったとか。
高さや地形の険しさを味方につけた軍事拠点というよりは、交通の利便性と見晴らしの良さで重宝されていた城のようで、地図で上空から見ると小さな平野の真ん中に構えているのがわかります。
確かにこれなら、頂上に立ったときの眺望は360°爽快という感じですね。
大永3年(1523年)6月当時、毛利家は二つの意味で苦しい状況にありました。
一つは、尼子氏への従属を強いられていたこと。
中国地方を二分する大勢力のもう一方、大内氏との戦に駆り出される状態です。
もう一つは、毛利家の当主が幼すぎて家中が不安定になりやすかったこと。
鏡山城の戦い時点で、当主は、元就の兄・毛利興元(おきもと)の忘れ形見である毛利幸松丸(こうまつまる)でした。
名前からもお察しの通り、まだ元服もしていない子供です。
幸松丸は永正十二年(1515年)生まれなので、鏡山城の戦いが起きた大永三年(1523年)は満8歳、数えで10歳でした。
戦国時代といえど、元服にはあと1~2年は欲しいという年齢ですね。
そのため、軍事を含めたほとんどの実務は叔父の元就が担っていました。
そんな折、尼子から命令がくだされるのです。
尼子経久「まずは鏡山城を落とせ」
大永三年(1523年)6月、尼子経久(つねひさ)から毛利家へ下された命令は以下のような内容でした。
「大内領内に攻め込むので、足がかりになる鏡山城を落とせ」
命を受けた毛利軍は同年6月13日、幸松丸を旗頭にし、元就が指揮を取って鏡山城の攻略を始めます。
尼子経久も出陣はしましたが、戦闘に関与する姿勢は見せません。

尼子経久/wikipediaより引用
毛利軍からすると、見張られているような、力を試されているような……さぞかし居心地の悪い気分だったことでしょう。
鏡山城を守っていたのは、大内方の武将である蔵田房信と叔父の蔵田直信でした。
彼らは「大内からの援軍が来るまで粘れ!」と考えて粘りに粘り、一向に落ちる気配がなかったといいます。
力攻めでは埒が明かない――そう考えた元就は、調略で敵の戦力を削ることにしました。
城内にいる蔵田直信へこう誘いかけたのです。
「蔵田家の家督と領地を確約するので、こちらに味方しないか?」
直信はこれに応じ、自分が守備していた鏡山城の二の丸へ尼子(毛利)軍を引き入れます。

鏡山城/wikipediaより引用
当然のことながら鏡山城は大混乱。
裏切られた側の蔵田房信は最期まで抵抗しましたが、最終的に、妻子と城兵の助命と引き替えに自害し、6月28日に鏡山城は落城となりました。
……と、ここまでなら割とよくある「味方の裏切りで一気に城が落ちた」話です。
確かに“裏切り”は見ていて気分が良いものではありませんが、戦国の世では致し方ない面があるのも事実でしょう。
しかし、戦国時代であることを差し引いたとしても、後味悪い話がこの後に出てくるのです。
しかも二つ。
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