島原の乱

島原城の天草四郎像

江戸時代

最後の戦国・島原の乱を制した知恵伊豆がエグい~板倉重昌は悲しき自爆

寛永14年(1637年)10月25日、島原南部で農民たちが代官を殺害して蜂起し、島原の乱が始まりました。

この動きに対し、江戸幕府が譜代大名・板倉重昌に命じて江戸を出立させたのは、同年11月9日のことですから約2週間で一報を聞き、準備を整えたんですね。

教科書では「キリスト教徒が反乱した」ことになっています。

確かにこの頃のキリスト教は江戸幕府によって禁じられていましたので、宗教戦争という見方もあります。

しかし、この反乱にはいくつかの思惑が絡み合っていて、単純に信徒だけの蜂起とも言えません。

戦乱期の様相もいささか残した、最後の戦国とでも言いましょうか。

一連の流れを見て参りましょう。

 

島原の乱=(農民+キリシタン+浪人)×天草四郎

島原の乱の原因、その一つは重税に耐えかねた農民の反乱という側面がありました。

江戸時代は、飢饉や災害の多かった時代。

それは島原のある九州も同じでした。

特に寛永11年(1634年)から数年に渡る凶作は酷いもので、そこに藩からの重税が課せられたのですから、民衆が耐え切れなくなるのは時間の問題でした。

『どうせ死ぬなら一矢報いてやろう!』

そんな農民達がキリスト教徒と合流し、あれよあれよと37,000人(約27,000人とも)ほど集まってしまうのだから大変です。

当初の幕府は「素人ばかりの挙兵なんて武士の鎮圧軍を派遣すればスグにカタがつく」と思っていたようですが、この乱は勃発から鎮定までに丸4ヶ月もかかっています。

反乱軍が立て籠もった原城跡

理由は、江戸幕府の抱えていたもう一つの問題にありました。

関ヶ原の戦いと大坂の陣――と、これまでに二つの大きな戦いがあり、巷に浪人(主君に仕えていない武士)が溢れかえっていたのです。

働き口を見つけたくても、大名家のお財布事情が苦しく、なかなか雇い入れてもらえない状況。

こうした浪人達が「野垂れ死ぬくらいなら、最期に一花咲かせてやんぜ!!(でもって運よくお殿様に腕を認めてもらえたらラッキー)」という考えで、反乱に加わったのでした。

今はプー太郎でも元々は武士ですから、武器の扱いも合戦のやり方も知っています。

戦闘経験豊富な浪人が加わってしまったことにより、単なる一揆では済まなくなってしまったのです。

「死なば諸共」

「死に花上等」

「デウス(当時キリスト教の神様をこう呼んでました)の加護あれ!」

こんな集団に、カリスマ的存在の少年・天草四郎(益田時貞)がリーダーとして加わってしまったものですから、とても地元の大名だけでは抑えきれなくなってしまいます。

 

1.5万石じゃ何十万石もの大名を動かせません

乱が起きたのは10月末。

江戸に知らせが届いたのは11月上旬。

大坂の陣から20年が経ち、歴戦の武将達が軒並み死去・引退していた幕府は大慌てとなりました。

「とりあえず真面目でフットワーク軽いヤツ行ってこい!」

かくして選ばれたのが板倉重昌です。

派手な戦功こそないものの、徳川家への忠誠心では誰にも引けを取らず、また咄嗟の機転も利く――自他共に適任と考えていたのかもしれません。

しかし、何と言っても1万5000石しかない小大名です。

九州に着いてみると、そのせいで思わぬ大苦戦を強いられてしまいます。

地元の大名達と共に反乱軍の立てこもる原城を度々取り囲んでも、全く効果が出ない。

それもそのはず、九州は関ヶ原や大阪の陣、そしてその後の改易・転封などで土地に不慣れな大名ばかりで、兵の忠誠心や統率も取れていなかったのです。

悪く言えば烏合の衆ですし、重昌の領地が少ないものだから、誰も積極的に従おうとしてくれません。

蜂起した信者が切り落としたという地蔵/wikipediaより引用

ちなみに、こんな小者じゃ、とても九州の海千山千の大名たちを指揮できないと、あわてて東海道を追いかけた(でも追いつけなかった)のが、あの柳生十兵衛のお父さんの柳生宗矩です。

一方、反乱軍は、美少年(真偽は不明)のリーダーがいる上、宗教やら重税の恨みやら、とにかく後がない状態ですから、戦意も団結力も極めて高い。

幕府軍は実に10万を超える部隊だったものの、板倉重昌も指導力を発揮できず、なかなか決着をつけられない状況でした。

 

知恵伊豆を送れば周りも言うこと聞くべ

思わぬ苦戦ぶりを知らされた幕府。

「ならば、次はもうちょっとエラい奴を行かせよう。そしたら皆言うこと聞くだろ」

そう考え、老中・松平信綱を差し向けました。

この人は頭が良すぎて「アイツと知恵比べしても勝ち目ねーよ。だって化け物だもん」と言われるほどのキレ者。

いわゆる知恵伊豆であります。

松平信綱知恵伊豆
5才で将来を決めた天才・松平信綱「知恵伊豆」欠点はツマランこと?

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好き嫌いが激しい家光でさえ「オレには、酒井忠勝と松平信綱がいるから、歴代の征夷大将軍でも一番幸せモンだな!」なんて頼りきっている重臣です。

NHKの歴史番組「知恵泉」も、知恵伊豆という彼のあだ名からきているんですね(信綱は伊豆守だった)。

九州で、信綱が来ることを知った重昌はビックリ仰天。

はっきり言われたわけでなくても、幕府ナンバー2の役職である老中の一人が江戸から遠く離れた九州へ出向いてくるなんて、自分の無力さを咎められているも同然ですからね。

しかも信綱は重昌よりも年下ですから、このままでは年長者としての面子が潰れてしまいます。

グズグズしていたら、手柄は全て信綱のものになる上、お咎めを受けるかもしれません。こうなったら……。

 

進退窮まり、新年早々自ら原城へ

進退窮まった重昌。

「お天道様も照覧あれ!!」と言わんばかりに、新年早々自ら原城へ突撃を決めてしまいます。

男らしいにも程があるだろ。

しかし……。

板倉重昌の男気も、士気MAXの反乱軍には通用せず、あえなく討ち死にとなってしまうのでした。

重昌の辞世

新玉あらたまの 歳に任せて 散る花の 名のみ残して 先駆けと知れ

このとき板倉だけでなく幕府側の兵も相当な死者数になっており、いかに戦略と士気が大切かがわかりますね。

巻き込まれた将兵はカワイソスですが……(´・ω・`)

一時的とはいえ、総大将を失った幕府軍は烏合の衆っぷりをさらにレベルアップさせてしまいます。

幸い、信綱が1月4日に到着したため、完全に瓦解することはありませんでした。

もっと遅れていたら、もしかするとさらに乱が長引いていたかもしれませんね。

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