正保3年(1646年)3月26日は柳生宗矩の命日です。
徳川将軍家の剣術指南役を代々引き継いできた一族の祖として知られ、実は大河ドラマの主役にもなったことがある人物。
1971年『春の坂道』が主役作品なのですが、そのことに触れると『意外だな……』と思われる歴史ファンは少なくないかもしれません。
なぜなら柳生宗矩の人格と言えば「腹黒い」とか「悪い親父でしょ」といったダークなイメージが先行し、その知名度は海外にも届いて
「アイパッチサムライ(柳生十兵衛)の毒親だよね」
という評判まで立ってしまっています。
しかし、史実面から見た場合はどうなのか?
柳生宗矩の実像を振り返りながら、根強い悪役イメージを考察してみましょう。
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大和柳生は松永久秀に仕え 未来を夢見たが
柳生宗矩並か、はたまたそれ以上か。
戦国時代には、彼と同様に怪しげなイメージを付けられてしまった人物が、同じ大和国にいます。
松永久秀です。
戦国随一の梟雄とされ、茶釜(平蜘蛛釜)を抱いて自爆したという伝説から「ボンバーマン」という不名誉な通称を付けられたりしますが、結論から言ってそれはあくまで俗説。
実際の久秀は智勇あふれる人物と考えられ、大和出身の出世頭として期待を集めていました。
宗矩の父・柳生宗厳(むねよし)も、そんな久秀に望みを託した一人。
三好長慶や筒井順慶ではない、新たな英雄のために己の剣を振るおうとしたのです。
しかし天正5年(1577年)、主人である久秀は、信貴山城で自刃してしまいました。
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そもそも宗厳は剣術と共に生きようとしていました。
久秀亡きいま、兵法者に戻って、生きてゆこう――と、思えども、時代の流れは大和の柳生を見逃しません。
信長の死後、天下人となった豊臣秀吉が【太閤検地】を実行し、柳生一族の隠し田も没収してしまったのです。
もはや浮き上がることはあるまい。まるで我が身は石の舟よ。
そう達観した宗厳は、石舟斎という号を持つ年老いた兵法家として、生きることとしたのでした。
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しかし、彼の子息はそうもできません。
石舟斎の五男として生まれ 家康に仕える
元亀2年(1571年)、柳生宗厳と妻・春桃御前との間に男子が生まれました。
夫婦の間には、すでに柳生厳勝、柳生久斎、柳生徳斎、柳生宗章という息子が4人いて、5番目の男子です。
そう、柳生宗矩のことです。
場所は大和国添上郡柳生(奈良市柳生下町)。
この柳生下町には、かつての居城・柳生城があり、現在は隣接して作られた「柳生陣屋跡」が残されています。
宗矩が建てたもので、柳生ファンにはたまらない風情が漂う、一度は訪れたいところの一つでしょう。
そんな宗矩が世に名前を知られるようになるのは、生誕からしばらく後のこと。
文禄3年(1594年)5月、石舟斎のもとへ思わぬ呼び出しがかかりました。
「無刀取りという極意があるそうだな。披露してくれぬか」
石舟斎はすでに古希目前。
23歳の宗矩を連れて家康のもとへ向かい、剣についてひとしきり語ると、家康が石舟斎と向き合います。
すると、家康の木刀は、軽々と跳ね飛ばされてしまいました。
「参った!」
家康は柳生新陰流への入門を願い、石舟斎は老齢を理由に宗矩を推挙します。
無刀であっても敵に斬られぬ――その極意に触れた家康の胸には、どんな思いが渦巻いていたのか。
かくして宗矩は家康に仕官を果たしたのでした。
会津征伐→大和→関ヶ原の戦い
秀吉の死後、俄然、勢いを増してゆく徳川家康。
慶長5年(1600年)になると、家康は上洛要請に応じない上杉景勝を討伐すべく進軍します。
【会津征伐(上杉征伐)】として知られ、家康主導のもと関東の大名がそれに続く一方、背後を突くようにして石田三成や毛利輝元らが挙兵しました。
すぐさま引き返す家康――このとき柳生宗矩は、家康に命じられて大和へ向かい、牽制役を担いました。
【関ヶ原の戦い】本戦にも参加し、その結果【太閤検地】により没収された2千石も取り戻したのですが、宗矩の働きは、兵法家というより忍者。
情報収集を行い、相手を牽制する、まるで上忍といえるような高度なものでした。
フィクションで柳生一族が権謀術数に長けている根拠としては、こうした特性が反映されているのでしょう。
さらには家康の嫡男・徳川秀忠の剣術指南役となり、さらに1千石加増されます。
沈んでいた剣豪・石舟斎の子は、見事に浮上したのです。
ここで少し、何かと柳生一族と比較されがちな宮本武蔵のことでも。
宮本武蔵は【関ヶ原の戦い】で西軍所属とされてきました。
しかし近年は東軍とする説もあり、今後の進展が待たれます。
フィクションでは、要領よく出世を重ねた柳生宗矩との対比として、苦労する宮本武蔵が描かれることが多い。そうなると西軍の方が都合がよくなるんですよね。
今後の作品でどうなるか。楽しみに待ちたいところですね。
そして柳生宗矩の武勇が最も発揮されたのは、関ヶ原の戦いではなく、慶長20年(1615年)の【大坂の陣】でした。
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