柳生宗矩

柳生宗矩の木像(芳徳寺)/wikipediaより引用

徳川家

柳生宗矩の生涯|なぜ剣豪なのに徳川政権で破格の出世を遂げたのか?

2025/03/25

正保3年(1646年)3月26日は柳生宗矩の命日です。

徳川将軍家の剣術指南役を代々引き継いできた一族の祖として知られ、実は大河ドラマの主役にもなったことがある人物。

1971年『春の坂道』が主役作品なのですが、そのことに触れると『意外だな……』と思われる歴史ファンは少なくないかもしれません。

なぜなら柳生宗矩の人格と言えば「腹黒い」とか「悪い親父でしょ」といったダークなイメージが先行し、その知名度は海外にも届いており

「アイパッチサムライ(柳生十兵衛)の毒親だよね」

という評判まで立ってしまっています。

しかし、史実面から見た場合はどうなのか?

柳生宗矩の木像(芳徳寺)/wikipediaより引用

柳生宗矩の実像を振り返りながら、根強い悪役イメージを考察してみましょう。

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大和柳生は松永久秀に仕え 未来を夢見たが

柳生宗矩並か、はたまたそれ以上か。

戦国時代には、彼と同様に怪しげなイメージを付けられてしまった人物が、同じ大和国にいます。

松永久秀です。

戦国随一の梟雄とされ、茶釜(平蜘蛛釜)を抱いて自爆したという伝説から「ボンバーマン」という不名誉な通称を付けられたりしますが、結論から言ってそれはあくまで俗説。

実際の久秀は智勇あふれる人物と考えられ、大和出身の出世頭として期待を集めていました。

宗矩の父・柳生宗厳(むねよし)も、そんな久秀に望みを託した一人。

三好長慶や筒井順慶ではない、新たな英雄のために己の剣を振るおうとしたのです。

しかし天正5年(1577年)、主人である久秀は、信貴山城で自刃してしまいました。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用

そもそも宗厳は剣術と共に生きようとしていました。

久秀亡きいま、兵法者に戻って、生きてゆこう――と、思えども、時代の流れは大和の柳生を見逃しません。

信長の死後、天下人となった豊臣秀吉が【太閤検地】を実行し、柳生一族の隠し田も没収してしまったのです。

もはや浮き上がることはあるまい。まるで我が身は石の舟よ。

そう達観した宗厳は、石舟斎という号を持つ年老いた兵法家として、生きることとしたのでした。

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しかし、彼の子息はそうもできません。

 


石舟斎の五男として生まれ 家康に仕える

元亀2年(1571年)、柳生宗厳と妻・春桃御前との間に男子が生まれました。

夫婦の間には、すでに柳生厳勝、柳生久斎、柳生徳斎、柳生宗章という息子が4人いて、5番目となる男子。

そう、柳生宗矩のことです。

場所は大和国添上郡柳生(奈良市柳生下町)となります。

この柳生下町には、かつての居城・柳生城があり、現在は隣接して作られた「柳生陣屋跡」が残されています。

宗矩が建てたもので、柳生ファンにはたまらない風情が漂う、一度は訪れたいところの一つでしょう。

柳生陣屋跡/wikipediaより引用

そんな宗矩が世に名前を知られるようになるのは、生誕からしばらく後のこと。

文禄3年(1594年)5月、石舟斎のもとへ思わぬ呼び出しがかかりました。

「無刀取りという極意があるそうだな。披露してくれぬか」

黒田長政を経由して、徳川家康からお声がかかったのです。

石舟斎はすでに古希目前。

23歳の宗矩を連れて家康のもとへ向かい、剣についてひとしきり語ると、家康が石舟斎と向き合います。

すると、家康の木刀は、軽々と跳ね飛ばされてしまいました。

「参った!」

家康は柳生新陰流への入門を願い、石舟斎は老齢を理由に宗矩を推挙します。

無刀であっても敵に斬られぬ――その極意に触れた家康の胸には、どんな思いが渦巻いていたのか。

かくして宗矩は家康に仕官を果たしたのでした。

 

会津征伐→大和→関ヶ原の戦い

秀吉の死後、俄然、勢いを増してゆく徳川家康。

慶長5年(1600年)になると、家康は上洛要請に応じない上杉景勝を討伐すべく進軍します。

【会津征伐(上杉征伐)】として知られ、家康主導のもと関東の大名がそれに続く一方、背後を突くようにして石田三成や毛利輝元らが挙兵しました。

すぐさま引き返す家康――このとき柳生宗矩は、家康に命じられて大和へ向かい、牽制役を担いました。

徳川家康と石田三成/wikipediaより引用

【関ヶ原の戦い】本戦にも参加し、その結果【太閤検地】により没収された2千石も取り戻したのですが、宗矩の働きは、兵法家というより忍者。

情報収集を行い、相手を牽制する、まるで上忍といえるような高度なものでした。

フィクションで柳生一族が権謀術数に長けている根拠としては、こうした特性が反映されているのでしょう。

さらには家康の嫡男・徳川秀忠の剣術指南役となり、1千石が加増されます。

沈んでいた剣豪・石舟斎の子は、見事に浮上したのです。

ここで少し、何かと柳生一族と比較されがちな宮本武蔵のことでも。

宮本武蔵/wikipediaより引用

宮本武蔵は【関ヶ原の戦い】で西軍所属とされてきました。

しかし近年は東軍とする説もあり、今後の進展が待たれます。

フィクションでは、要領よく出世を重ねた柳生宗矩との対比として、苦労する宮本武蔵が描かれることが多い。そうなると西軍の方が都合がよくなるんですよね。

今後の作品でどうなるか。楽しみに待ちたいところですね。

そして柳生宗矩の武勇が最も発揮されたのは、関ヶ原の戦いではなく、慶長20年(1615年)の【大坂の陣】でした。

 

大坂の陣――秀忠を守り抜いた柳生の剣

柳生宗矩は大坂の陣で徳川秀忠のそばにいました。

すると敵の兵が秀忠の陣へ乱入。

徳川秀忠/Wikipediaより引用

宗矩はあっという間に7人を斬り伏せ、主君を守り抜いた――と同時に、どうにも苦い出来事がその後起きてしまいます。

大坂城落城のとき、家康の孫娘である千姫が燃える城から脱出してきました。

秀忠は婚家に殉じぬ娘に苦い顔をしたものの、祖父である家康からすれば苦労をかけた孫娘ですからとにかく嬉しい。

この千姫を巡り、思いがけぬ事態が引き起されるのです。

千姫を無事に送り届けた恩賞として、坂崎直盛という武将が1万石を加増されました。

しかし、直盛はそれだけではおさまらず、千姫を奪う計画を立てたのです(【千姫事件】)。

千姫を助けた者は彼女を娶ってよいという条件がつけられていたとも、救出時に火傷をした直盛と結婚するのは嫌だと千姫が語ったともされていますが、どうにも話として盛られている感はあります。

いずれにせよ、何らかの不満があったのでしょう。

坂崎直盛/wikipediaより引用

そして計画は幕府の知るところとなり、坂崎直盛のもとへ説得に向かったのが柳生宗矩でした。

宗矩はどのように交渉をしたか?

直盛が自刃したら坂崎家は存続させるとか、奪い去るような真似をして恥ずかしくないのかと諭したともされています。

結果、坂崎直盛は自刃。

この功績により、宗矩は恩賞として坂崎の屋敷を賜ったものの、苦い結末を迎えてしまいます。

幕府は、坂崎直盛の自刃と引き換えに存続するとしていた坂崎家を取り潰してしまったのです。

事件後、柳生の家紋には坂崎のものであった二蓋笠が加わりました。

柳生家の替紋「柳生笠」/wikipediaより引用

「柳生笠」として知られ、恩賞として賜ったとも、坂崎を忘れぬためともされています。

宗矩は坂崎の者を庇護してもいるのです。

 


三代家光を教え導き 諸大名に目を光らせる

徳川秀忠には2人の男子がいました。

活発である弟・徳川忠長に対し、兄・徳川家光はどうにも消極的であるとされ、両親の秀忠と江は弟ばかりを寵愛したとされます。

徳川家光(右)と徳川忠長/wikipediaより引用

これに危機感を覚えたのが家光の乳母・春日局。

徳川家康に訴えると、長幼の序を重んじるべきであるとされ、家光が次の将軍とされます。

そしてその剣術指南役となったのが柳生宗矩であり、兵法のみならず、精神性を高める教えを授けたとされます。

元和9年(1623年)、家光は3代将軍となりました。

宗矩も、将軍剣術指南役にまでのぼりつめ、さらに出世は続きます。以下、リストにして確認してみましょう。

寛永6年(1629年)3月 従五位下に叙位・但馬守

寛永9年(1632年) 3千石加増・初代幕府惣目付(大目付)就任・老中および諸大名の監察を行う

寛永13年(1636年) 4千石加増により、計1万石の大名となる・大和柳生藩成立

寛永17年(1640年) 5百石加増・二男の友矩遺領分2千石加増も含め、1万2千百石となる

冒頭で触れた通り、宗矩の命日は正保3年(1646年)3月26日の享年76ですので、数えで70歳ぐらいまで幕府で働き続けたことが見えてきますね。

そしてその評価も大きいものだったのでしょう。

柳生藩は、代々の藩主が将軍剣術指南役として江戸にいるという、特殊な藩として明治維新まで続いたのです。

兵法家からここまで出世した人物は、宗矩しかいません。

彼が兵法のみならず、監視役としての能力を有することもあげられますし、宗矩には思想もありました。

 

剣禅一如、柳生の活人剣

兵法とは、ただ剣を振るものではない――そんな境地を見出してこそ、真の兵法家と言えるのでしょう。

柳生宗矩もそんな一人でした。

始まったばかりの幕府にとって、宗教勢力に対する規制を強めるのは重要な課題でした。

かつてのように【僧兵】が猛威を振るった乱世に揺り戻すことはできません。

興福寺の僧兵/wikipediaより引用

その締め付けの一環として【紫衣事件】が起きるのですが、有罪とされ沢庵宗彭の赦免に尽くした人物として、宗矩もあげられるのです。

沢庵はその強い意志ゆえに叛いただけであり、教えと人柄は素晴らしいものがある。そのために赦免の動きも高まったのです。

その甲斐あってか、寛永9年(1632年)、秀忠の命により沢庵は許されました。

宗矩は家光と沢庵の面会のために尽力し、寛永13年(1636年)の家光上洛の際に実現しています。

家光は沢庵の教えに感銘を受けたのか、江戸で近侍するよう命じます。

家光の精神性を磨き上げた宗矩は、剣術のみならず人生の師としても信頼されるようになりました。

このことは宗矩の剣にとっても、新たな道を開きました。

宗矩の求めに応じ、沢庵は剣と禅を一致させる境地――剣禅一如を説いたのです。この教えは『不動智神妙録』として伝授されたと伝えられます。

殺人剣を振るわねばならなかった乱世が終わり、泰平の世にふさわしい活人剣が求められている。

宗矩は新たな兵法を見出したのです。

 


家光が敬愛した将軍指南役

柳生宗矩の慧眼は、晩年になっても発揮されています。

寛永14年(1637年)に【島原の乱】が勃発。

家光は、鎮圧上使として板倉重昌を派遣することとしましたが、それを知らされた宗矩はこう言いました。

「地位が低いあのような者では、無理を重ねて討ち死にするは必定……」

そうして諫めながらも品川まで馬で追うも、板倉重昌はすでに島原へ向かってしまうのでした。

板倉重昌/wikipediaより引用

このあと、重昌の討ち死に聞いた家光は「宗矩の言う通りであった……」と悔やんだとされます。

正保3年(1646年)、宗矩は病み、自邸で療養しているときに、家光自ら見舞いに訪れたともされます。

宗矩は、病床で新陰流の奥義を伝えつつ、世を去りました。

享年76。

彼を描いた作品が『春の坂道』という題名であることは、納得ができます。

殺人剣から活人剣へ向かう柳生宗矩の人生は、春の日差しを浴びながら坂道を登るような、泰平を目指すものでした。

柳生の芳徳寺には、世を見つめる宗矩の像があります。

正木坂剣禅道場が隣接しており、今日も竹刀の音が響いているのです。

柳生家一族累代之墓所

芳徳寺にある柳生家一族累代之墓所/photo by 663highland wikipediaより引用

 

伝奇ものでドス黒く染まる宗矩

柳生宗矩は立派な人物です。

海外でも評価が高く、剣禅一如の精神性は今なお尊敬を集めている。

それなのになぜ、柳生宗矩はドス黒い悪役イメージが先行してしまうのか。

『春の坂道』で主演を務めた萬屋錦之介は、映画『柳生一族の陰謀』で同じ宗矩役を演じました。

この宗矩が大きな話題をさらいました。

ラストシーンで家光の首を抱えると、錯乱しながらこう叫んだのです。

「これは夢じゃ、夢でござぁあるぅう!」

『春の坂道』は映像化ソフトが残っていませんが、『柳生一族の陰謀』は存在します。

柳生一族の陰謀(→amazon

 

海外でもタランティーノはじめ、ファンが多い名作で、かつリメイク版もあり、2020年代になってからはNHK版も制作されました。

こうなると宗矩のイメージは、ますます固定されてゆきます。

「ああ、あの夢でござるの人か」

かくして時代ものの定番である家光と秀忠の争いにも欠かせない存在として定着した柳生一族。

家光擁立のためならば手段を選ばぬ集団として、柳生一族は印象付けられました。

『柳生一族の陰謀』を監督した深作欣二は、またも柳生宗矩像を印象付ける映画を撮影します。

『魔界転生』です。

魔界転生(→amazon

この映画では天草四郎の印象が強いものの、宗矩も悪役として登場。

原作は山田風太郎です。原作では宗矩は「魔界転生」という究極の闇堕ちをする過程が生々しく描かれています。

『魔界転生』は人気が高く、『Fate/Grand Order』にも強い影響を与えていますね。

当然のことながら、このゲームにも柳生宗矩は悪い顔で登場する。

戦中派の南條範夫が原作であり、若先生の名で知られる山口貴由が漫画化した『シグルイ』でも、宗矩は陰険な定番悪役として登場しました。

このように近年の作品でもコンスタントに登場するため、宗矩の黒さは更新されるばかりで衰えを知りません。

 


乗り越えるべき父としての宗矩

深作欣二にせよ、山田風太郎にせよ、なぜ柳生宗矩をこうも毒々しく描いたのか?

これにはなかなか深い理由があると感じます。

彼らは若い頃、アジア太平洋戦争を経験しました。

当時の青少年は、武士道を徹底的に叩き込まれ、日本国民全体が武士としての誇りを抱けと刷り込まれていました。

中でも別格と言える作品が、吉川英治『宮本武蔵』です。

武蔵のように生きるべきだ――何人の青年がそう思い、どれだけ戦場に命を散らしていったことか。

宮本武蔵/wikipediaより引用

生き延びた戦中派の胸中には、宮本武蔵を筆頭に、武士道の鑑とされた武士への複雑な思いが醸成されてゆきます。

アジア太平洋戦争のあと、日本を支配したGHQはそうしたチャンバラの洗脳効果を理解していました。

そのためしばらく時代劇そのものの制作が禁じられます。

その禁が解かれたとき――当時、脂の乗り切っていたクリエイターたちは、武士道への憎悪や嫌悪感を炸裂させます。

別に実際の江戸時代や剣豪が憎いわけではなく、それを刷り込んだ権力への憎しみが炸裂したのです。

そのため、昭和中期から後期の作品では宮本武蔵が極悪非道扱いされることがしばしばありました。

『魔界転生』でも原作最大の敵は宮本武蔵です。

柳生宗矩は武蔵と異なり、体制に順応する狡猾な大人として描かれる。子のない武蔵とは異なり、倒すべき父として機能するのです。

宗矩には隻眼伝説のある嫡男・柳生十兵衛もいます。

彼は奔放過ぎて家光に嫌われた伝説もあり、父という権威への対向者として最適、『スターウォーズ』におけるダースベイダーとルークのような関係ですね。

結果、柳生宗矩と十兵衛という父と子は、昭和高度経済成長期に戦中派が抱いた感情を載せて、さまざまな作品で描かれることとなるのでした。

また、宗矩の子供たちが秀逸なキャラクター揃いということもあります。

三男以降は魔改造の結果にせよ、兄二人は史実や伝承の時点でキャラ立ちしているのです。

嫡男・十兵衛:奔放すぎて家光に嫌われた伝説のある自由人・隻眼伝説がある

二男・友矩:家光の寵愛を受け夭折

三男・宗冬:兄の急死により家督を継いだ常識人・なぜかフィクションではよく殺される

四男・列堂義仙:側室の子であり、芳徳寺の住職となる・フィクションでは柳生一族というだけで魔改造される

柳生一族はキャラクター性が本当に素晴らしい。

『花の慶次』原作者である隆慶一郎『柳生非情剣』は、家光と友矩のボーイズラブにして、漫画化もされました。

さらには宗矩の系統が【江戸柳生】ならば、尾張徳川家に仕えた柳生利厳(としよし)の【尾張柳生】もいます。

利厳の子・厳包(兵庫・連也斎)も兵法家として名高く、宗冬を圧倒したという伝承もあるほど。

それがフィクションではやたらと誇張され、江戸と尾張の柳生一族が死闘を繰り広げる展開も定番化しました。

さらには発想の自由さで定評のある伝奇小説の大家・荒山徹は自作に「朝鮮柳生」を登場させるのですから、いや、もう、なんでもありですね。

フィクションにおける柳生の自由さは、類を見ないものがあります。

しかし、そうした毒々しい印象を拭いたいのであれば、奈良県の柳生を訪れてみましょう。

染み入るように鮮やかな緑の中に、柳生ゆかりの寺や道場があります。

「柳生一刀石」は『鬼滅の刃』の聖地巡礼としても人気が出ていました。

静かな剣禅一如を極めた実像と、毒々しい伝奇ものでの姿。

その違いを楽しめることこそ、柳生宗矩の魅力なのかもしれません。

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【参考文献】
新人物往来社『剣の達人111人データファイル』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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