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【松平信綱(知恵伊豆)】
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「我が右の手は讃岐、左手は伊豆」
当然家光からも気に入られており、
「我が右の手は讃岐(酒井忠勝)、左手は伊豆(松平信綱)」
とまで称されています。
その信頼に比例して忙しさもハンパなかったようですが、何においても手落ちがないどころか家光のワガママまできっちり叶え、しかもそれを実行させた下々の人にも気配りをすると言う完璧振りでした。
また、家光・家綱の代に起きた大事件についても、後始末に信綱が動いたというケースは少なくありません。
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などなど、ヘタをすれば幕府が揺るぎかねない出来事も見事処理してみせました。
これじゃ人外扱いされるのも無理はありませんね。
能や茶などの芸能や遊びをしない真面目人間
ただし仕事人間によくあることで、人付き合いはあまり得意ではなかったとか。
というのも当時の大名の趣味として好まれていた能や茶道、歌、舞など文化的なことにからきし興味がなく、兵法にも通じる碁や将棋もたしなまなかったのです。
そのためか
「デキるけどつまんねー奴」
という評価をされてしまったこともあります。
また、家光が亡くなったときに殉死しなかったことも悪評の一因になってしまいました。
そもそもこれは家光自ら「お前には家光の補佐を頼みたいから、死んでくれるなよ」と命じたからだったのですが、当時は「お世話になった主君が亡くなるのなら、お供をして当然」という考えが強かったためディスられてしまったのでした。
信綱自身も「先代様に受けたご恩をもって、徳川家を支えていかなければならん」と考えており、面と向かって非難されたときはそのように反論しています。
もう少し後になって徳川家綱~徳川綱吉の時代には、家光や信綱の考え方=殉死禁止が法的に定められましたので、それ以降はこの点で信綱をけなす人はあまりいなかったようです。
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まあ、人間多少の欠点がないと本当に実在してたかどうかというレベルから疑いたくなってきますから、無趣味なり何なり、マイナス要因があったほうがリアルではありますよね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
松平信綱/wikipedia