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【徳川家斉】
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子供は全部で55人 どんだけ散財する気だ
松平定信の質素倹約徹底!な方針に対し、徳川家斉は次第に折り合い悪くなっていきます。
家斉「金魚鉢を大きくしたい」
定信「お金がもったいないからダメです!」
といったように贅沢を禁じられ、さらにはオヤツまで制限されるなど、かなり厳しくされてしまいます。
あまりに腹がたった家斉は、二十歳を迎えた頃、怒りのあまり定信を手討ちにしようとしたなんて話も……。
かくして定信は失脚へ追い込まれ、さらに後を継いだ松平信明や同年代の老中達が隠居し始めると、今度は「ワイロ贅沢万歳!」な水野忠成という人物が老中首座に就いてしまいます。
家斉自身は家臣のプロフィールを細かく覚えているなど頭脳明晰な一面もあったようですが、家臣たちのワイロ政治を許すタイプだったようで。
それどころか、うるさい定信や老中連中がいなくなると家斉も贅沢をしはじめ、それでいて異国船打払令(外国の船は皆ぶっ飛ばせ!というメチャクチャな法律)のせいで余計に財政が圧迫され、もはやどうにもならない状態に陥ります。
その上、家斉自身は、正室はもちろん40人もの側室を抱え、そのうち17人に55人もの子供を儲けるという大散財。
27人は早世していますが、それでも残り28人ですから大所帯には変わりません(子供の数は53人とか57人というように諸説あり、本稿では国史大辞典に準拠して55人としました)。
いくら乳幼児の死亡率が高い時代とはいえ、これでは財政を立て直すヒマがないのも当たり前です。
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実家である一橋家が「ウチの血筋で本家を乗っ取ってやるぜゲッヘッヘ。せいぜい頑張れよ(意味深)」(※イメージです)という意向だったからともいわれていますが、それにしたって命中率高すぎやろ。
酒豪の割に長生きだったり、風邪すらほとんどひいたことがなかったようなので、元々かなり頑丈な人だったのは確かですが。
将軍を譲った後も実権を握り続ける老害っぷり
この間、貨幣の改鋳が行われてインフレ状態が続き、さらに【天保の大飢饉】が起きたため、民衆の不満も右肩上がりというかリミットブレイクものでした。
よくこれで江戸城に放火とかされなかったものです。
というか大坂では【大塩平八郎の乱】が勃発しています。
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打ちこわしでも「ターゲット以外には迷惑をかけないこと」が最低限のルールだった時代ですから、「将軍とお偉方はムカつくけど、お城には他の人もたくさんいるから手荒な真似はならねえ」とか思われてたんですかね。
しかしそんな市民の声は家斉に届かず、息子・徳川家慶(いえよし)に将軍を譲ってもなお実権を握り続けるなど、最後の最後まで良い政治をしようとはしませんでした。
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上記の通り、小さい頃にはいきなり将軍候補にさせられ。
将軍になったらなったでずっと実家にアレコレ言われ続け。
無理にレールを歩かされた人生と言えなくもないので、歳を取ってからヤル気が出ないのも当たり前ですが……。
何というか……子沢山すぎるので、戦国時代に生まれていればもうちょっと活躍の場があったかもしれませんね。
頑健な体がもったいない。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
徳川家斉/wikipedia