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【天明の大火】
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囲米を使って食料を確保する
復興は、もちろん大変でした。
ちょうど(?)米の買い占めをやって幕府に処罰された蔵があったため、そこから被災者へ配分したり、籾を備蓄する「囲米(かこいまい)」を行って、当面の食料を確保します。
囲米とは、今でいうところの救援物資倉庫のようなもの。
元々は戦国時代に兵糧を蓄えていたのが始まりで、戦がなくなった江戸時代には、冷害や天災への備えとして食料を備蓄しておりました。
米の価格を調整する目的もありましたが、江戸時代における災害の多さを考えると、被災時へ備えるウエイトのほうが大きかったでしょう。
幕府や大名家が備蓄したところが「囲米」。
農村部での自主的な備蓄や、お金持ちの寄付によるものが「義倉」というように、少々呼び名が変わります。
義倉は社倉とも呼ばれ、日本史受験でも美味しい得点源になるところですね。
建造物などへの復興は、火が収まって10日前後が経った2月中旬から始まりました。
混乱を防ぐため、復興用資材の流入制限がされたり、復興に注力するために株仲間などを一時停止したり、様々な工夫を行った結果、この規模の災害としては比較的早く、京の町は混乱から立ち直ることができたようです。
ただし、御所の再建などを巡っては、朝幕関係に火種を残しました。
ぜいたくな御所など建てられません
ときの帝は光格天皇。
明和八年(1771年)生まれで安永九年(1779年)即位ですから、天明の大火が起きた天明八年(1788年)は、まだ18歳の若さです。
上記の通り、この火災では皇居や女院の御所なども被害を受け、それぞれ仮の御所へ移り住むことになりました。
光格天皇は聖護院。
義母といえる立場の後桜町上皇は青蓮院。
後桜町上皇の生母・青綺門院(せいきもんいん)は知恩院。
といった感じです。
光格天皇の御所については、再建までに数年の時間を要しています。
というのも再建の規模について、朝廷と幕府の間に溝が生じてしまったのです。
朝廷側は、伝統に従って壮麗な御所が再建されることを望んでいました。
「ただでさえ大飢饉で幕府は財政難に陥っているのに、ぜいたくな御所など建てられません!」
と大反対。
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結局は朝廷側の言い分が通ったものの、押し切られて莫大な費用を捻出しなければならなくなった定信は、その後もずっと腹を立て続け、京都所司代や京都町奉行へ
「朝廷のワガママをこれ以上許すなよ(#^ω^)」(※イメージです)
と命じています。
両者の仲は【尊号一件】の確執に発展
定信の主君である将軍の権威は、天皇から与えられたものなのですから、もうちょっと柔軟な返事をしたほうが良さそうですけれどね。
この大火とほぼ同じ時期に、定信と光格天皇は【尊号一件】と呼ばれる確執を起こしているので、かなりイライラしていたと思われます。
尊号一件のほうは、後桜町上皇が光格天皇をなだめて、なんとか丸く収まりました。
その辺の話は以下の記事で取り上げているので、気になる方は併せてどうぞ。
最後の女帝・後桜町天皇が国母と称される理由~尊号一件で見せた存在感とは
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もしも受験生の方がご覧になられていましたら……受験勉強の範囲では、どうしても一つ一つの物事を暗記していくことに集中しがちです。
こうやって関係する点をつなぎ合わせてみると、ストーリーが思い描けて覚えやすくなるのではないでしょうか?
無味乾燥な暗記作業の補助となれれば幸いです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「天明の大火」「天明の京都大火」「囲米・貯穀」
天明の大火/wikipedia