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【徳川治済】
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定信が大反対!上方の事件が影響していた……
家斉は8歳で家治の養子となり、家治死去の後、十一代将軍となります。
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そして治済は「将軍の父」として、実権を握ることになるわけです。
家斉が将軍になってから治済が気にしたのは、
「将軍の父であり、実務も十分に行っている自分が、臣下扱いされるのは解せぬ」
ということでした。
そこで「ワシを大御所と呼ぶように」と幕閣たちに要求したのですが、ここで寛政の改革を行って失敗していた、松平定信が大反対します。
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ただ単に政敵だからというのではなくて、上方での事件が絡んでいました。
当時の天皇は、第119代・光格天皇です。
この方は先代の後桃園天皇に嫡子がいなかったため、親王家から養子入り・即位しています。
そして「父よりも息子が上の位になる」こと、さらに「禁中並公家諸法度により、親王は摂関家よりも下の位である」ことから、「天皇の父が摂関家よりも下の序列になってしまう」という事態を引き起こしました。
光格天皇はこれを不服とし、実父である典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとします。いわゆる「上皇」のことです。
と、これに反対したのも、松平定信でした。
「一度も皇位についたことのない方が、上皇と呼ばれるようになるのはおかしい」という、これはこれでまっとうな理由です。
尊号一件 最後は鷹司と定信で手打ちの調整
定信の反対に対し、朝廷では「徳川さんのほうではそうなっとりますけど、昔はそういうこともあったんどすえ」(超訳)と故事を引き出してきて反論。
過去に複数例あるものですから、朝廷からすればきちんとした反証でした。
しかし、定信はあくまで言い張ります。
「昔は昔ですし、過去の例は南北朝の動乱時にやむなくしたこと。今は今ですから、徳川の定めた掟に忠実でいただかないと困ります!」
朝廷からすれば「東夷(あずまえびす)がなんと図々しい!」としか見えなかったことでしょう。
この静かな戦いは三年経っても埒が明かず、光格天皇はついに辛抱を切らし、勝手に会議を開いてしまいます。
「幕府の意向なんぞどうでもいいわ! 公家の中で、父上に尊号を贈るのに反対な者はおるか!」
そして圧倒的な賛成を得て、典仁親王を上皇としてしまったのです。
「このままでは幕府と朝廷の全面対決になってしまう……」
そんな風に憂慮した公家が、典仁親王の弟であり、光格天皇にとっては叔父である鷹司輔平(たかつかさ すけひら)でした。
輔平はどうにか幕府に渡りをつけて、事を穏便に収めるべく、定信に連絡します。
「私から陛下に上皇宣下を取り下げるようお話しますので、親王の待遇をもうちょっと良くしてもらえませんか」
しかし、定信からの返信はつれないものでした。
「幕府が政治を預かっているのですから、皇室や公家の処分を決めるのも幕府です」
結局、上皇宣下の取り消し・何人かの公家と勤皇家の学者に免職・捕縛するかわりに、典仁親王の領地を増やすことで、この事件は解決となりました。
この一連の騒動を【尊号一件】といいます。テストに出る……かも。
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