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【徳川治済】
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定信が追い出された理由は寛政の改革だけじゃない
さて、ようやっと治済に話が戻ります。
尊号一件で「例え朝廷や皇族であっても、敬称をつける決まりに例外はない!!」と強調してしまった定信は、当然ながら治済を「大御所」と呼ぶわけにもいかなくなってしまいました。
もしここで「どうぞどうぞ」と言ってしまったら、朝廷から「お身内には随分優しいですなあ」と言われてしまうからです。
そんなわけで定信は
「大御所というのは将軍位に就かれていた方が名乗るものですから、治済様には当てはまりません」
と言い続けることになります。
これで治済も家斉も完全に敵に回してしまったため、定信は幕府の中枢から追われてしまいました。
白河の 魚の清きに 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき
田沼意次よ、戻ってこい――なんて狂歌があるくらい、寛政の改革も成功していたとは言いがたかったですしね。
田沼意次はワイロ政治家というより優秀な経済人? 評価の見直し進む
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女好きのバカ殿だったわけではない……と思いたい
定信は白河藩主としては成功を収めているので、領民にとってはよかったかもしれません。
憎き政敵を追い落とした治済は、その後も亡くなるまで豪奢な生活を送りました。おそらくは、政治へ大いに口を出しながら。
確実に多大な影響を与えているのに、具体的な逸話がはっきり伝わっていないあたりが何とも不気味です。
徳川家斉は子沢山な将軍として有名です。
子供を55人も作った11代将軍・徳川家斉 一体どんな治世だったんだ?
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それほど漁色にふけったのも、父に逆らえないストレスからだったのかもしれません。
家斉は一生のうちに数回風邪を引いたくらいで、めちゃくちゃ頑丈な人でしたから、外出どころか政治すら自分の意志を出せないというのは、相当窮屈に感じていたでしょう。
まあ「子供をたくさん作って、跡継ぎはもちろん徳川の血筋全体をウチで固めるように」とも言われていたようですが。
「娯楽が少ないと夜頑張る」というのは、現代のあっちこっちの国でも同じです。
家斉が女好きのバカ殿だったわけではない……と思いたいところです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
徳川治済/Wikipedia
尊号一件/Wikipedia