歌川国芳

猫と後ろ姿が特徴の『歌川国芳の自画像』/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

歌川国芳はチャキチャキの江戸っ子浮世絵師!庶民に愛された反骨気質

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江戸っ子にともかく売れる国芳

日本を代表する浮世絵師といえば?

海外でも評価の高い葛飾北斎

風景画が得意な歌川広重

繊細な鈴木春信。

美人画の喜多川歌麿。

ミステリアスな東洲斎写楽。

こうした面々が思い浮かぶところでしょう。

彼らの絵が教科書やポスターに印刷される一方、歌川国芳は一風変わった人気を博し、しかも現在まで続いています。

◆タトゥー・アパレル・フィギュア

国芳の武者絵はヤバい! ともかくイケてる!

となれば、その素晴らしいセンスをファッションにも取り入れたくなるもので、こう思い詰める江戸っ子たちが現れました。

「もういっそのこと彫り物にしてぇ!」

世界的にも美麗で細やかな技術とされる和彫。

明治時代になると、来日した英国王室の人々まで、わざわざ和彫の刺青を入れたほどであり、国芳とも深い関係があります。

現代でもタトゥーアーティストともなれば、国芳の作品集はマストだとか。

水滸伝』の英雄好漢は、九紋竜・史進はじめ刺青がトレードマークだったりします。

そんな彼らに倣って、どうせなら国芳画の『水滸伝』名場面を刺青にしたい――そんなニーズが江戸後期以降連綿と続き、現在でも『水滸伝』の人物名や名場面で画像検索をかけると、美麗な刺青が出てきます(裸体ですので閲覧にはご注意を)。

現代人であれば、もっと別の手段で国芳ファッションが実践できるでしょう。

Tシャツ、アロハシャツ、スニーカー、バッグ、スマートフォンケース……今でも十分かっこいい国芳は、こうした商品の定番です。

猫や金魚はその可愛らしさを生かし、スマホケース、アクリルキーホルダー、そしてフィギュアにもなっています。

◆“武将グラフィック”の祖

国芳とその一門は、武者絵が大得意でした。

その影響は現代のインターネットにまで及び、Wikipediaはじめ、肖像画や銅像がない武将紹介記事は、歌川国芳とその一門の浮世絵が用いられることが多い。

『水滸伝』の百八星は、中国語のサイトでも国芳の絵が用いられています。

フルカラーで特徴をとらえた国芳の画風は、本場でも評価されているのです。

◆妖怪画

巨大なガイコツが襲いかかってくる妖怪「がしゃどくろ」は、国芳作『相馬の古内裏』を元にしています。

その姿は国芳を起点とし、水木しげるを経て、さまざまな漫画やゲームに登場。

一度見たら忘れられないインパクトがあるでしょう。

「がしゃどくろ」の元となった歌川国芳『相馬の古内裏』/wikipediaより引用

◆漫画やゲームの祖

日本の漫画の祖は何か?

そう問われたら『鳥獣戯画』が候補に挙がったりしますが、さすがに飛躍し過ぎではないか?と思います。

それを言うなら国芳の影響の方が大きい。

『水滸伝』の百八星や武将絵は、コミックス表紙や、トレーディングカードを連想させます。

同じサイズで特徴を出すため、派手なポーズをつけたり、一目で見てわかる武器を持たせたりして、技を見せる――コレクター魂を刺激する魅力もあります。

国芳一門が編み出した新機軸が三枚続です。それまでの三枚続は単独でも成立し、かつそれを三枚並べることでも絵になる構造でした。それを国芳は三枚揃える横長のダイナミックな構図にしたのです。

横長の画面に派手な場面を描く! この構図により英雄が戦う相手はどんどん巨大化し、前述の「がしゃどくろ」のような構図が実現します。

一騎打ち。巨大な鯨や妖怪がうごめく。宮本武蔵が鯨と戦う絵が生まれたのは、国芳の奇想のおかげです。

これは現在ならば漫画雑誌のカラー見開きページです。満足感のある迫力がだせます。

縦に二枚繋いだ縦長構図も実現しました。『八犬伝』序盤の名場面「芳流閣の決闘」など、高低差のある場面を描くことに最適です。

国芳一門に夢中になった人々がやがて画家となり、武者絵を描く。

その武者絵が挿絵に入った小説を読んでいた読者が、漫画家となって描いてゆく。

こうして辿っていけば、現在にまで辿り着くのは自然なことと言えるでしょう。

◆ブサカワイイ! 愛が溢れる猫絵

現在、世界的に猫ブームとされます。それもあってか、「国芳=猫大好き」というイメージもすっかり定着しました。2023年太田記念美術館で開催された「江戸にゃんこ 浮世絵ネコづくし」のポスターは、国芳の絵が飾りました。

国芳は自他ともに認める猫好きでした。本人の自画像は地獄絵のどてらと、周りでくつろぐ猫が定番です。弟子の芳年も師匠の追善画に「猫を愛していた」という言葉を添え、その足元に白猫を描きました。

国芳だけでなく弟子にも猫絵師がいて、

「猫をなんで描くかって? そりゃァかわいいからよ!」

という発想が彼らからは感じられますが、実はこれが新しくて、かつ現代人にもグッときます。

東洋には、中国由来である猫絵の伝統がありました。

「耄耋(もうてつ)」という伝統的な画題で、親やお年寄りへのプレゼントとして定番です。

耄(もう)と、耋(てつ)は、高齢者を指します。その中国語の発音がそれぞれ「猫」と「蝶」に通じることから、「蝶と猫」は長寿を願う吉祥絵として定番なのです。

猫を描いた浮世絵は、こうした吉祥アピールを全面に出した上品なものが定番。

それに対し国芳は、カワイイ、ふてぶてしい猫絵を大量に残しました。

「かわいければいいじゃねえか!」

そんな愛が溢れているからこそ、今も人々の心を惹きつけるのでしょう。

◆擬人化と規制すり抜けなら任せろ! 風刺画に判じ物

今ではすっかりおなじみとなった動物の擬人化も国芳は大得意です。

これは幕府の取り締まりが強化されていた時代背景もあり、規制をかいくぐらねば浮世絵の販売許可もおりません。そこで、一工夫となる。

国芳は絵師としての技量だけでなく、風刺やジャーナリストとしての能力にも長けていて、頭もキレると当時から評価されていました。

例えば『里すゞめねぐらの仮宿』といった作品は、遊女絵の禁止を回避するために生み出されました。

「人がダメなら鳥にしてやらァ!」という発想ですね。

艶本、要するにエロ本も取り締まられると、こうします。

「人がダメなら、猫にしてやらァ。濡れ場がダメってんなら、その前後よ」

その“前”を猫で表現するとこうなる。

「これ、おしゅん坊よ。おめェさん、最近塞いでんじゃねェか。ちぃとマタタビでも呑むといいぜ」

暗い顔のメス猫に、酒を勧めるオス猫というわけですね。

そして“後”はこう。

「おやおや俺の子ばかりじゃねえ! いろいろ混じりだ!」

メス猫の出産に立ち会うオス猫が、毛色のちがう仔猫を見てびっくりしている。

さすが国芳ながらの工夫であり、現代でも参考にできる技巧ではないでしょうか。

ちなみに武将絵も、戦国時代末期は実名禁止とされたため、それとわかる変名を用いることがしばしばあります。

国芳は規制強化とも奮闘した絵師だったのです。

規制突破のためのデフォルメやパロディは、結果的に客に気に入られ、新たなる定番技法となったものもあります。

奇想天外な絵の数々は、幕末に向かう時代だからこそ生まれたものでもありました。

生粋のエンターテイナーは時代を泳ぎ抜くんですね。

◆オカルトにまで?

国芳は現代になってオカルトにも登場します。

江戸時代の絵師がスカイツリーを予見して描いているってよ!」

「マジか! 国芳パネェな……」

『東都三ツ股の図』がそう見えるとか(→link)。

念の為に行っておきますが、これはただの塔であり、スカイツリーができる以前にこんな話題はありません。

ともかく国芳は現代人にとっても非常に魅力的でしょう。

風景画にしても、極端に美化するのではなく、隅田川の上をプカプカと西瓜の皮が流れているような生々しい作風であり、美人画は生き生きとしていて元気いっぱい。

アルチンボルドのような寄せ絵。シルエットを生かした騙し絵。遊び心と生命力に溢れ、とても魅力的です。

浮世絵は大量生産されますし、安いから包装紙感覚で使われました。

丁重に扱われるものではないせいか、シリーズでも抜けが生じていたり、海外でのみ現存する作品も多かったりします。

それでも決して色褪せることはない。国芳の魅力がそこにはあります。

 

“梁山泊”のような国芳一門

国芳は“一勇斎”という号もあります。

その名の通り、鉄火肌で、江戸っ子の血が騒ぐ――絵だけでなく、人柄もそうでした。

売れっ子となったそ国芳は、身も落ち着いてきました。

41歳で22歳の妻えいと結婚し、住まいも向島に転居。

家族思いで、妻の母と同居して労り、娘たちもかわいがっていました。

そして国芳は、歌川一門でも際立って弟子の多い師匠でした。

国芳一門はさながら絵師の梁山泊で、絵が上手でイキのいいお兄さんたちが集まってきます。おっと、お兄さんだけでなく、芳玉というお姉さんもいました。そこも梁山泊と同じですね。

祭りともなればそれぞれが名前入りの扇子を手にして、連れ立って歩いてゆく、そんな絵も残されています。

幼い河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)が弟子入りしたのもこのころ。

後に暁斎が回想した絵には、懐に猫を入れて暁斎を指導する国芳が描かれています。隣には、掴み合いの喧嘩をする弟子たち。

国芳一門はなかなか血の気が多かったようで、教育環境としての悪さゆえか、暁斎は親によって辞めさせられ、狩野派に入門することとなる程でした。

国芳は不遇の時代が長かったうえに、持ち前の江戸っ子気質で弟子の面倒をよく見ます。

個人ではなく一門単位で売り出す、プロダクションのようなシステムがありました。

国芳の娘たち(芳鳥・芳女)も絵師であり、門人は確認できるだけでも100名いるとか、いないとか。

そんな絵師の梁山泊を率いる国芳は、祭りと火消しが大好きで、宵越しの金は持たない、チャキチャキの江戸っ子で親分肌でした。

巻き舌で、主語は「ワッチ」、相手を「メェ」と呼ぶ。画料はパーッと使うか、弟子にあげてしまう。

羽織は身につけず、ちりめんのどてらに三尺帯という姿。

堅苦しい礼儀や挨拶派嫌いで、「先生」と呼ばれると柄じゃねえと返す。

気取りとは無縁の人柄だったのです。

そして国芳は愛情深く、家族、子ども、生き物、そして猫をこよなく愛していました。

自画像の周りには数匹の猫がいるし、弟子の月岡芳年が描いた肖像画にも猫が登場しています。

こんな話があります。

弟子の芳宗が、国芳から金を渡され、こんな頼み事をされました。

「うちの黒がお陀仏になっちまってよ。すまねぇが和尚に預けて戒名をもらって、畜生塚(江戸のペット霊園)に埋めてもらってきてくれねぇか」

国芳の家には猫仏壇、猫位牌、猫過去帳までありました。

そうはいっても、猫の死骸がプカプカ川に浮かんでいたって誰も気に留めない時代です。

芳宗は途中でアホらしくなってしまい、猫の死骸を両国橋から投げ捨て、もらった金で吉原で遊ぶと、翌朝何食わぬ顔をして戻ってきました。

これがバレてしまい、国芳はカンカンになって怒ったとか。

器量よしもブサイクも、全てかわいい。

そんな国芳の猫への愛が、作品を通しても伝わってきますよね。

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