歌川国芳

猫と後ろ姿が特徴の『歌川国芳の自画像』/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

歌川国芳はチャキチャキの江戸っ子浮世絵師!庶民に愛された反骨気質

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江戸っ子の心を読み解く絵師親分

そもそも浮世絵とは何なのか?

定義としては「江戸庶民の風俗を描いた絵画」とされ、それまでの絵画とは大きく異なるため、新たなジャンルとされました。

それ以前の一大ジャンルとしては、中国から伝えられた画があります。

代表格が雪舟ですね。

室町時代の中国趣味は、権威としての位置づけもあり、例えば3代将軍・足利義満は【日明貿易】を実施しています。

それまでの時代は、朝廷の許可なく民間で自由に貿易は行われていましたが、明側の厳しい【海禁政策】によって不可能になると、室町幕府が正規ルートのみでの交易を確立。

希少価値は上がれば、ステータスシンボルとして利用できるようになり、幕府は中国文化を組み込んだ文化様式を作り上げます。

大名なら、中国の茶碗で客人をおもてなし、中国画を飾ってお出迎えしましょう。

というわけで、大名たちもマナー違反にならぬよう中国の茶道具や絵画を買い漁ります。

しかし、そうした秩序も乱世の影響で崩れ、南西沿岸部の大名は非合法国際貿易集団【倭寇】を通して買い漁り、それが日本に流れ込んでいく――江戸幕府成立まで続ました。

こうしてエリート層が楽しんでいた中国風の絵画に対し、庶民に寄り添うテーマや風俗で描かれたのが【浮世絵】となります。

歌川国芳とは、この浮世絵の特性を十二分に生かし切った人物とい言えるでしょう。

数多いる浮世絵師の中でも、彼ほど江戸っ子親分肌の気質で、江戸っ子代表の絵師だった人物はいない。

「先生」なんて呼ばれたらむしろ嫌がる。

「ワッチャー(私は)未だに先生なんざなりゃせん、先生なんていうなァ、そっちの隅にいる被布を着た人サ」

という具合で豊国を指差し、自分が呼ばれるのはいやがったとか。

自画像だって、後ろ姿ばかりで自分の顔を描きません。権威を利用して威張りたくねぇ!という生粋の江戸っ子でした。

そういう江戸っ子代表だからこそ、国芳の作品は庶民のハートに刺さり、コミットする作品をヒットさせ、浮世絵は庶民の武器となったのです。

しかし、脂の乗り切った国芳にとって、苦難の時が訪れます。

天保年間の13年目(1842年)、老中・水野忠邦による【天保の改革】が始まったのです。

・華美な服装を禁ず

・水茶屋は禁止

歌舞伎、浮世絵……娯楽はけしからん!

当然のことながら、国芳の作品も大打撃。

そんな最中の天保14年(1843年)に『源頼光公館土蜘作妖怪図』が発売されました。

源頼光公館土蜘作妖怪図

歌川国芳作『源頼光公館土蜘作妖怪図』/wikipediaより引用

国芳お得意の武者絵をジッと見つめるうちに、江戸っ子は大興奮し始めます。

「わかったぜ、これァよ、四天王は幕閣を示してンだよ!

右端にいる卜部季武を見てみろ。この紋はあの水野忠邦と同じ沢潟(おもだか)じゃねえか!

で、こっちで寝ている頼光ときたらよ。これは投げっぱなしの上様(家慶)を示してンのよ」

「お、言われてみればそんな気がしてきたぜ。じゃァ背後にいる妖怪は……」

祭り、凧、富くじ、寄席……江戸っ子が愛し、楽しんできた娯楽が、妖怪の姿をしている――「判じ物」という謎とき技法で読み解いていったのです。

この作品は売れに売れ、おそろしくなった版元が板木を破壊してしまったとか。国芳もお咎めナシ。

そして水野の政策に耐えかねた江戸っ子たちは、ついに妖怪に変じます。

この絵が売れた歳、水野忠邦は失脚に追い込まれ、将軍である徳川家慶は、騒ぎが起きていると知らされました。

大奥の庭にある山に登り、騒ぎの方に目をやると、水野の屋敷が江戸っ子たちに取り囲まれているではありませんか。

「ぶち殺して恨みを返してやらァ!」と怒鳴りながら、屋敷を破壊する民衆。

その姿に家慶は参ってしまい、ますます無気力になっていったのです。

 

しかしニーズを読み違えることもある

売れっ子漫画家の次回作が始まった。

堂々の巻頭カラーで、これはきっと面白いだろう!

そうワクワクしていたのに、何かピンとこない……。案の定、掲載順も下がってしまい、気づけば連載が終了していた。

そんな悲しいことって、世の中にはありますよね?

江戸時代の売れっ子浮世絵師もそうでした。

庶民のニーズがあってこそ成立する厳しい世界であり、彼らの気質を知り尽くしたはずの国芳ですら、売れない作品はありました。

国芳は貪欲で、江戸っ子のニーズだけでなく、画風まで学ぼうとしました。

当時の売れっ子だった葛飾北斎に入門までしようとしたのだから、発想が大胆というか、とにかく作品にまっすぐというか。

「歌川派屈指の絵師じゃァねェか。葛飾派で学ぶこたねェよ!」

と北斎に断られながらも二人は交流を持ち、絵について語り合うようになったとか。

国芳が葛飾派に心惹かれた理由として、紅毛画(おらんだが・西洋画)の技法を取り入れていたことがあります。

西洋画をこなした渡辺崋山とも交流があったとされます。

これからは西洋画の時代だ。そう感嘆しながら作品の未来を考えていた国芳。

その一例が『近江の国の勇婦於兼』に結実しています。

伝統的な美人画のようで、馬の姿はあまりにリアル、西洋画のタッチです。

そして満を持して嘉永5年(1852年)――国芳56歳、西洋画の手法で人気題材『忠臣蔵』の羲士をリアルタッチで描く『誠忠義士肖像』シリーズを発表しました。

しかし、まさかの12作目で打ち切り……。

国芳は、ニーズを読み違えました。江戸っ子は写実的な絵ではなく、派手な舞台にいる役者が見たかった。

「なんかよ、こう、いつものタッチじゃねェよな」

「国芳にこういうのは求めちゃいねェなァ……」

これにはさすがの国芳もショックを受け、八つ当たりのように義士を茶化したパロディを発表しています。

国芳の失敗は、国芳一門にも受け継がれています。

後に弟子の一人である月岡芳年は、自作が売れないことで精神的に追い詰められましたが、チャレンジ精神も受け継ぎ、明治維新という大変動に直面すると、リアルタッチ浮世絵という新境地へ挑んでいったのです。

国芳一門が時代の荒波を超えられたのは、師匠譲りの進取の気質があったからでしょう。

 

江戸幕府の黄昏に没す

嘉永6年(1853年)、ペリー率いる【黒船来航】により、日本中が騒然としました。

国芳一門も世の流れに直面。

二年後の安政2年(1855年)秋、国芳は中風に倒れました。

以降の作品は、彼らしい遊び心とセンスがあるとはいえ、それまでの勢いが失われた線ではあります。

万延元年(1860年)に江戸では幕府を揺るがす【桜田門外の変】が勃発。

その翌文久元年(1861年)、国芳は自宅で息を引き取っています。

享年65。

死絵は落合芳幾が筆を執りました。

師匠の葬儀で、芳幾は弟弟子の芳年を蹴り飛ばしています。

理由は些細なことで、弔問客でごった返しているのに、空気を読まない芳年がぼーっと座っていたのが邪魔だったそうで。

「邪魔だァ、どきやがれ!」

こんな調子で蹴り飛ばしたのでしょう。芳年はこのことをしつこく恨んでいたそうです。

この兄弟弟子は共作もするけれど、芳年は相手を罵倒する、そんな愛憎混じりの関係でした。

国芳の死後、国芳一門は世の変動を描くことにました。

将軍・家茂の上洛。豚食い野郎一橋慶喜がトンズラこいたみっともねえ顛末……そんな時代の流れを超えて、彼らは師匠の教えと共に生きていくのでした。

国芳一門系統の絵師は、昭和までおりました。

そうした系譜だけでは国芳の影響は語れません。

今もファンが多く、アーティストやイラストレーターにも彼を好きだと語る人は多い。日本のみならず海外でも、国芳をあしらった様々なものが生み出されています。

古いようで新しく、今見ても十分にカッコいい。

そんな歌川国芳は、これからも愛されてゆくことでしょう。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
悳俊彦『もっと知りたい歌川国芳: 生涯と作品』(→amazon
三菱一号館美術館図録『芳幾・芳年 ― 国芳門下の2大ライバル』(→link
太田記念美術館図録『江戸にゃんこ浮世絵猫づくし』(→link
小林忠『別冊太陽浮世絵師列伝』(→amazon
小島毅『子どもたちに語る日中二千年史』(→amazon

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