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【水野忠辰】
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家格を問わない実力人事が重臣たちの反感を買い……
成果が出たことで安心した忠辰は、次のステップに進みます。
江戸で暮らしていたときの近習たちを含め、家格を問わず実力のある者を登用しました。
目をかけられた彼らもよく働き、忠辰とともに領民から慕われるようになっていきます。
どこもかしこもビンボーな江戸時代に、年貢の減免ができたというのですから、いかに人材に恵まれていたかがわかるというものです。
しかし、これが面白くないのは、岡崎藩で代々お偉いさんを務めてきた家の人達です。
「殿はどこの馬の骨ともわからんやつらばかりを重用して、ワシらのことはないがしろにする!」
そういった妬みを爆発させ、改革の邪魔をしたのです。
まぁ、嫉妬は男女問わず起こるものですけれど、それにしたって、せっかくうまくいっているのに「ワシの出番が無いから」なんて理由で、主の邪魔をするとはおかしな話でしょう。
ただ、実務を一番良くわかっているのも、そうしたお偉いさんの面々。
病気を口実に出仕を拒み、若手と家老の間で連携が取れなくなったことにより、忠辰の思い描く改革は頓挫してしまいました。
仕方なく忠辰は、若手の重役を罷免して家老のご機嫌を取りましたが、一度スネた家老たちはやっぱり言うことを聞きません。
忠辰自身がまだ20代の若者であったことも、おそらく理由の一つかもしれません。
要するに「若者がワシらより活躍するのは許せん」というわけです。
これぞ、ザ・老害……。
ヤケクソで酒、女じゃあああああああ!
にっちもさっちもいかなくなってしまった忠辰は、ヤケになって酒色に溺れ始めました。
生母の順性院は我が子と藩の状況を憂いて、度々諫言をしましたが、効果なし。
ついに順性院は自らの命をもって諌めましたが、かえって忠辰は七百両もの大金を払って遊女を身請けするなどして荒れつづけます。
こうなるともう誰にも止められず、宝暦二年のこの日、ついに強制隠居させられた……というわけです。
荒れた生活で体も弱っていたのか。
それから半年もせずに忠辰も亡くなってしまいました。
まだ28歳でした。
本来ならば長生きして立派に藩を立て直していただろう――そう思うと、残念でならない話です。
「手段と目的を間違えるとロクなことにならない」という類の話ですが、家老たちは一体何がしたかったんでしょうね。
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長月 七紀・記
【参考】
中江克己『江戸三〇〇年 あの大名たちの顚末』(→amazon)
大石慎三郎『江戸大名 (知れば知るほど)』(→amazon)
水野忠辰/wikipedia