勇猛かつ実績はあるのに後世で名を轟かせられない戦国武将がいます。
例えば、天下人・徳川家康の従兄弟かつ破天荒な性格&戦闘能力を持ちながら、徳川家の中では四天王の陰に隠れてしまいがちな水野勝成。
あるいは大友家や龍造寺家の大軍を寡兵で撃破し、島津四兄弟の中では最強だと思われる家久なども、その活躍に比していまいち、特に東日本では馴染みが薄いような気もします。
本稿で注目の毛利秀包(ひでかね)もその一人でしょう。
毛利元就の実子。
なおかつ西の最強武将と称えられる立花宗茂と義兄弟――そんな戦国ファンにはたまらないエピソードもあるのに、いまいち認知度は高まっておりません。
一体なぜなのか?
というと、この秀包、幼い頃から大名家にありがちな「家督相続」に巻き込まれ、慶長6年(1601年)3月22日に若くして亡くなってしまう悲運の戦国武将なのです。
その才能を、小早川隆景や豊臣秀吉に気に入られながら、しかし、だからこそ悲運な運命をたどってしまった。
毛利秀包の生涯を追ってみましょう。
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元就の九男として生まれ、兄の小早川家へ
毛利秀包は永禄10年(1567年)、毛利元就の九男として生まれました。
元就の"九男”であること自体インパクトが大きいのですが、さらに71歳のときに生まれた子というのも、なんとタフネスな……。
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長男の毛利隆元は大永3年(1523年)に誕生しているとされ、秀包から見れば「44歳上」の兄になります。
当時の平均年齢を考えれば、親どころかおじいちゃんであっても不思議はありません。
もっとも、隆元は永禄6年(1563年)に急死しており、秀包が彼と会うことはありませんでした。
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秀包の母は元就の継室(側室という見解も)である乃美家の出身で、乃美の当主たちは小早川隆景に仕える筆頭家臣でもあります。
この時点で、元就の三男・隆景との縁が深いことが読み取れるでしょう。
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当時の毛利家は、すでに隆元の息子・毛利輝元が家督を継いでいたため、秀包にその役目が回ってくることはありません。
秀包は元亀2年(1571年)、かつて安芸武田氏に仕えていた戸坂氏の家系が断絶したことを受け、その名跡を継ぎました。
しかしその後、備後の国衆である大田英綱の家系が断絶し、遺臣が「秀包を迎え入れたい!」と元就に懇願。
毛利家ではこの要請を受け入れ、秀包は1年と経たずに家を替えることとなりました。といっても、このときまだ5歳ですから、当人の意志とは関係なく異動していますね。
さらに天正7年(1579年)、秀包は三たび家を移ることになります。
ただ、そのときは「たらい回し」感のあるものではなく、秀包から見れば34歳上の兄にあたる隆景の願いで小早川家に入ることとなったのでした。
子だくさんの元就とは違って隆景には実子がいません。ゆえに秀包は次期小早川家当主として迎え入れられたのですね。
その際、隆景の家臣たちの願いで秀包の小早川家入りが実現した――あるいは隆景が秀包の武勇を惚れ込んで後継者へ願ったという説があります。
秀吉に気に入られる
小早川隆景には吉川家を継いだ兄・吉川元春がいます。
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この毛利を支える両家を指して「毛利両川」などと言われたりしますが、その一角の後継者として期待された秀包。
当時の毛利家は織田信長と対立し、彼の右腕である羽柴秀吉の猛攻によってピンチに陥っていました。
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毛利方の武将である清水宗治が守る備中高松城は秀吉による水攻めで陥落寸前の状態にあり、ここが落ちれば織田の大軍と直接対決の恐れが出てくるという状況にあったのです。
ところが、です。
水攻めの最中に本能寺の変が勃発!
明智光秀の手によって信長は討たれ、秀吉は毛利攻めどころではなくなります。
戦況を優位に運んでいた秀吉は手早く毛利と講和を結び、全速力で京都へ引き返して光秀を打倒しました。
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一連の講和条件として毛利家は人質の提供を求められました。
そこで、毛利家から福原元俊、吉川家から吉川広家、そして小早川家からは秀包が大坂へと向かいます。
「人質」とはいっても秀吉に虐げられるなんてことはなく、秀包は厚遇されていたようです。
秀包はこれまで「市正元総」と名乗っていましたが、秀吉によって「藤」と「秀」の使用を許され「藤四郎秀包」と改名しています。
元俊と広家はすぐに帰国しているので、秀包は秀吉のお眼鏡にかなったのでしょう。
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一説には、秀包が超イケメンの美男子だったため気に入られたなんて話も……。
「従五位上・治部大輔」という地位も与えられた秀包は、加藤清正や石田三成らと似て「秀吉子飼いの将」のような扱いを受けていたと推定されます。
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