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【宝暦治水事件】
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完全に解決されるのは明治時代に入ってから
工事に要した費用は、現在の貨幣価値で300億円以上と推定されています。
平成28年度の鹿児島県予算が一般+特別会計を合わせて1兆478億円ほどですので、約1/30ってところでしょうか(鹿児島県HP)。
この莫大な金額を都合するため、薩摩ではサトウキビを強引に収めさせ、堺などの商人に渡すことでやりくりしていました。
が、サトウキビ農家からすればただの強奪にしか見えません。
このため、薩摩藩は靱負という大切な家老と藩士の多くが犠牲になった上、領内からの恨みも買うという散々な結果になっています。
工事は一応成功の部類に入っているので、全く無駄だったわけではないのですが……あまりにも代償が大きすぎました。
しかも、工事地域ではなかった木曽三川の上流地域では、逆に洪水が増したといいます。
完全に解決されるのは、明治時代に入ってお雇い外国人のヨハニス・デ・レーケが指揮する工事が行われてからでした。
それでも、近年の伊勢湾台風などの大きな災害では被害が出ています。
悲劇は、大正時代にようやく知られ……
この悲劇は、幕府との関係や幕末のドタバタに紛れ、少なくとも大正時代あたりまで、地元鹿児島では全く知られていませんでした。
1920年に鶴丸城の裏あたりへ「薩摩義士碑」として、この事件の犠牲者を弔う碑が建てられ、ようやく鹿児島でも知られるようになってきたとか。
靱負の話が教科書に載っているらしいので、小さい頃に聞いた覚えのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
また、現地である岐阜県のお寺でも、薩摩義士を葬ったところや、資料館を併設しているところがあるようです。
以下のホームページの方が、詳しく現地レポートを書かれているので、紹介させていただきます。
◆「薩摩義士(宝暦治水跡)」(→link)
いずれかの地を訪れた際には、こういったところにも立ち寄って、悲嘆と無念のうちに亡くなった薩摩の人々に手を合わせてみてはいかがでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
宝暦治水事件/wikipedia
薩摩義士/wikipedia