徳川将軍の歴代正室たち

徳川将軍の歴代正室たち/wikipediaより引用

江戸時代

徳川将軍の正室(御台所)ってどんな人だった?家康~慶喜15代全まとめ

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徳川15代全将軍の正室(御台所)
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四代:家綱の場合

伏見宮貞清親王の第三王女・顕子女王(あきこじょおう)が御台所です。

17歳で輿入れし、19歳のときに大奥へ移りました。

が、37歳で亡くなるまでの間、ほとんど逸話がありません。

徳川家綱は絵画や文学を好み、下々の者への思いやりもある人だったと思われる逸話が多いので、顕子女王を冷遇していた……というのも考えにくい気がします。

ただ、側室との間には子供ができたことがあります。

俗説として「皇族や公家出身の御台所は、子供ができても堕胎させられていた」なんて話がありますが、三代・四代ともに御台所が懐妊しなかったので、そんな噂ができたのかもしれません。

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五代:綱吉の場合

鷹司家の姫・信子が御台所です。

三代・家光の御台所だった孝子の姪孫(てっそん・大叔母の逆)にあたります。

徳川綱吉との夫婦仲については意見が分かれています。

他の側室に嫉妬し、綱吉の寵愛を自分の派閥の女性にひきつけるため、いろいろやったなんてことも言われてますね。

また、綱吉が亡くなって一ヶ月後に信子自身も亡くなったため、「綱吉は信子に暗殺された」という噂も立ちました。

そのためか、創作物では「綱吉を愛していたからこそ行き過ぎた行動に出た」という表現をされていることが多いです。

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六代:家宣の場合

徳川家宣が「甲府宰相」と呼ばれていた=将軍になる前からの正室・近衛熙子(ひろこ)が御台所になりました。

若い頃に一男一女を授かりましたが、二人とも夭折。さらに夫が将軍になってからは側室を何人も迎えたため、大奥ではあまり良い扱いではなかったようです。

ライバルとなる側室・お喜世の方(月光院)の息子で七代将軍となった徳川家継が幼くして亡くなり、さらに八代・徳川吉宗が将軍になってから正室を迎えなかったため、実質的な大奥の主として長く君臨することになります。

それが幸せだったかどうかはわかりませんが、ずっと肩身の狭い思いをするよりはマシでしょうか。

なお、蛇足ですが、明智光秀の正室も熙子(ひろこ)と言います。

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七代:家継の場合

霊元法皇の第十三皇女・吉子内親王が御台所になるはずでした。

というのも、徳川家継自身が婚約中に亡くなってしまったため、結婚自体が成立しなかったのです。

当時、吉子内親王はまだ2歳にもなっていなかったため、「本人の記憶が無いところで未亡人になっていた」という笑えない事態となります。

まぁ内親王は、慣例的に未婚を通すのが当たり前だったので、あまり支障はなかったかもしれませんが。

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