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【徳川15代全将軍の正室(御台所)】
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八代:吉宗の場合
実は、御台所が存在しません。
というのも、紀州藩主時代には正室・理子女王(まさこじょおう・伏見宮貞致親王の娘)がいたのですが、徳川吉宗が将軍になる前に、出産時のトラブルで亡くなってしまったのです。
その後、吉宗は正室や御台所を迎えませんでした。
性格的に「公家や皇室から迎えると面倒だし、大名家から迎えてもそれはそれで金がかかる。じゃあ側室だけでよくね?」と考えていたのかもしれません。
吉宗と理子女王が夫婦だった期間はたった四年程度。
不幸な結果になったとはいえ、その短さで子供ができたことがあるのですから、そこそこ以上の愛なり情なりがあったと思いたいところです。
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九代:家重の場合
伏見宮邦永親王の四女・増子女王(ますこじょおう)が御台所でした。
理子女王とは叔母・姪の関係です。
夫婦仲は良好だったようで、結婚の翌年に徳川家重と隅田川で船遊びをしたり、三年目には子供を授かっています。しかし、早産とその後の経過が悪く、23歳の若さで亡くなってしまいました。
奇しくも、家重は父と同じような経緯で妻を亡くしたことになりますね。
また、家重も父と同様に、その後は御台所を迎えていません。
家重の場合、身体に障害を持っていて幕臣や庶民もナメられていたフシがありますので、尊い身分でありながらもきちんと接してくれたと思しき増子女王には、かなりの思い入れがあったのではないでしょうか。
側室も二人と少なめです。
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十代:家治の場合
閑院宮直仁親王の六女・倫子女王(ともこじょおう)が御台所です。
徳川家治は徳川将軍家の中ではかなりの愛妻家で、倫子女王との間に二人の娘をもうけました。
残念ながら二人とも夭折し、男子を授かることはありませんでしたが、家治は側室から生まれた男子を倫子女王の養子として育てさせています。
これで生母でなくとも、倫子女王の御台所としての格を保ち、次の将軍の代になっても困ることがないように計らったのでしょうね。
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十一代:家斉の場合
近衛寔子(ただこ)こと、薩摩藩八代当主である島津重豪の娘・茂姫(しげひめ)が御台所です。
結婚から15年ほどして、敦之助という男子を授かりました。御台所の出産自体も珍しい上、男子となると家光を産んだのは、お江与の方以来の快挙です。
しかし、既に世継ぎが決まっていたために、敦之助は清水徳川家の養子に入り、さらに幼くして亡くなってしまっています。
その後も一度懐妊したことがありますが、このときは流産という残念な結果になりました。
徳川家斉は、一説には側室40人以上、子供55人という、凄まじい展開になっておりますが、ほとんどを茂姫の養子という扱いにしておりました。
こうすることで茂姫の地位を保てますし、他の家へ養子や嫁入りさせるときにも箔が付きます。
ついでにいえば、茂姫の地位が絶対的になることで、御台所vs側室という無用な争いを避けることができました。
家斉がどこまで意識していたのかはわかりませんが、少なくとも茂姫への愛情があったからこそ、過剰なほどに養子扱いにしたのでしょう。
通常であれば、次期将軍になるであろう男子だけを御台所の養子にすれば済む話ですから。
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