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【徳川家慶】
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幕府が【上知令】を断行したところ、大名と旗本が猛烈に反発。
水野忠邦が老中を罷免されると、“妖怪”たちはこぞって水野の屋敷を取り囲みました。
「上様、騒ぎが起きております……」
そう耳にした家慶は、大奥の庭にある山へ登りました。西の丸にある水野屋敷の方を見ると、江戸っ子たちが大挙して押し寄せているではありませんか。
彼らは屋敷に向かって雨あられとばかりに石を投げつけ、大声で罵詈雑言を投げかけています。
昼が終わり夜になっても、その人数は減るどころか増えるばかり。鳶口や梯子を使って、屋敷に乗り込もうとする者まで出てくる始末であり、
「ぶち殺して恨みを返してやらァ!」
そんな恐ろしい声まで聞こえてきたとか。
田沼意次の時代にも、庶民は怒っていましたが、ここまでのことはなかった。後世にまで語り継がれるだろう、と江戸城内では噂になったのです。
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外患への対処が取れず
【蛮社の獄】で、外圧への対処を訴える蘭学者を弾圧した幕府。
こうした一件から海外対策が無能だとされがちな江戸幕府ですが、実際はそんなことはなく、外圧を感じながらの情報収集には余念がありませんでした。
なんせイギリス海軍による【フェートン号事件事件】が起きているし、欧州では【ナポレオン戦争】の終結により、ロシアの目線は東へ向けられています。
捕鯨船も度々接近してきていた。
そんなタイミングで起きたのが【阿片戦争】です。
これだけさまざまな事件が起きていて、それが無視できるはずもありません。
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【寛成の改革】には、軍事改革も含まれていたのです。
大名と旗本の反発を受けた【上知令】も、侵略に備え、江戸と大阪の幕府支配体制を強化する狙いがあったのでした。
天保12年(1841年)、江戸近郊徳丸原で砲術家・高島秋帆による洋式銃隊の訓練が行われたことは、その象徴的な出来事といえます。
そうはいっても、前述の通り水野忠邦が失脚し、大々的反発を受けるところを目の当たりにした家慶は、やる気を失ってゆきます。
あんなことは懲り懲りだ、穏やかに過ごしたい――そう考えていた将軍だという印象が当時から続いているのです。
無気力な家慶にかわり、幕政は土井利位・阿部正弘・筒井政憲ら幕僚に委ねられます。
若くして登用された阿部正弘は優秀な人材で、諸外国に柔軟な発想で対応。
家慶時代にはオランダ国王・ウィレム2世が「開国したらどうか?」と勧めていましたが、幕府はそれに至ることはありませんでした。
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死因は熱中症
海岸に姿を見せる巨大な船に、幕府は気づかなかったわけではない。
ただ、自ら開国の是非を検討するような、積極的対応は先延ばしにしていました。
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それも嘉永6年(1853年)6月3日で終わりを告げます。
マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が姿を見せ、いよいよ最終局面へと突入していくのです。
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