鎖国

出島(長崎)/wikipediaより引用

江戸時代

鎖国とは国を閉ざすのではなく制限だけ~長崎以外にも複数の外交ルートはあった

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他にもあった江戸時代の外交ルート

かように鎖国といえばオランダ・中国との話が中心。

これを「江戸時代の外交」に広げてみると、また少し見方も変わってきます。

江戸時代には長崎以外に3つ、合計で4つの外交窓口がありました。

マトメておきましょう。

◆長崎口(幕府担当)

・オランダ
・清(中国)

上記説明どおりです。

◆対馬口(対馬藩担当)

・李氏朝鮮

朝鮮通信使も対馬経由で日本へやってきます。

江戸時代の外交関係の中では、かなり密接な付き合いがあった窓口ですね。

◆薩摩口(琉球口)

・琉球王国

外交・交易というより「支配」。

慶長十四年(1609年)、薩摩藩は琉球を攻略し、幕府もこれを認めていました。

琉球は中国・清王朝にも朝貢していましたので、二重に主筋を持つという、いかにも苦しそうな立場になります。

しかし、逆に日本と清という大きな取引相手を確保できたことで、自治と文化を保ち続けました。

◆蝦夷口

アイヌ民族

普通の交易もしていましたが、割と衝突の多い方面です。

というのも、松前藩は北方の地ゆえに財源が少なく、アイヌとの交易による収益にほぼ頼りきりでした。

当然、より多くの利益を得ようとしますが、そのためにアイヌに対して無茶ぶりなんぞをするわけです。

また、江戸時代の後半以降はロシア人による圧迫も加わり、複雑な状況が続きました。

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密貿易(抜け荷)は頻繁に行われていた?

長崎は幕府直轄地だったので、不正や外国人の潜入は比較的難しかったといわれています。

それでもシーボルト

「私は山育ちのオランダ人なので、言葉になまりがあります^^;(オランダに山があるとはいっていない)」

と言い張って滞在したりはしていますが。

シーボルト
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しかし、他の松前・対馬・薩摩では、ほぼ公然と密貿易(抜け荷)を行って、こっそり利益を得ていた者もいたようです。

海に接している他の藩の中にも、密貿易をしているところはあったとか。

そのついでにキリスト教が入ってきてはたまらないので、幕府は密貿易を取り締まろうとしていましたが、うまく行っていません。

現代でいうところの外患誘致などがなかったことは、不幸中の幸いといえるでしょう。

大陸国家の歴史と比較するとわかりますが、内通者のせいで紛争→戦争になることほど、質の悪いものはないですから。

だいたいこのあたりを頭に入れておくと、幕末の外交関係がいかにイレギュラーの連発だったか、幕閣がその対処に苦慮していたかが飲み込めてくるかと思います。

スパンが長いので、全てを把握しておくのは難しいですけれどね。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「鎖国」
鎖国/wikipedia

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