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他にもあった江戸時代の外交ルート
かように鎖国といえばオランダ・中国との話が中心。
これを「江戸時代の外交」に広げてみると、また少し見方も変わってきます。
江戸時代には長崎以外に3つ、合計で4つの外交窓口がありました。
マトメておきましょう。
◆長崎口(幕府担当)
・オランダ
・清(中国)
上記説明どおりです。
◆対馬口(対馬藩担当)
・李氏朝鮮
朝鮮通信使も対馬経由で日本へやってきます。
江戸時代の外交関係の中では、かなり密接な付き合いがあった窓口ですね。
◆薩摩口(琉球口)
・琉球王国
外交・交易というより「支配」。
慶長十四年(1609年)、薩摩藩は琉球を攻略し、幕府もこれを認めていました。
琉球は中国・清王朝にも朝貢していましたので、二重に主筋を持つという、いかにも苦しそうな立場になります。
しかし、逆に日本と清という大きな取引相手を確保できたことで、自治と文化を保ち続けました。
◆蝦夷口
・アイヌ民族
普通の交易もしていましたが、割と衝突の多い方面です。
というのも、松前藩は北方の地ゆえに財源が少なく、アイヌとの交易による収益にほぼ頼りきりでした。
当然、より多くの利益を得ようとしますが、そのためにアイヌに対して無茶ぶりなんぞをするわけです。
また、江戸時代の後半以降はロシア人による圧迫も加わり、複雑な状況が続きました。
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密貿易(抜け荷)は頻繁に行われていた?
長崎は幕府直轄地だったので、不正や外国人の潜入は比較的難しかったといわれています。
それでもシーボルトが
「私は山育ちのオランダ人なので、言葉になまりがあります^^;(オランダに山があるとはいっていない)」
と言い張って滞在したりはしていますが。
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しかし、他の松前・対馬・薩摩では、ほぼ公然と密貿易(抜け荷)を行って、こっそり利益を得ていた者もいたようです。
海に接している他の藩の中にも、密貿易をしているところはあったとか。
そのついでにキリスト教が入ってきてはたまらないので、幕府は密貿易を取り締まろうとしていましたが、うまく行っていません。
現代でいうところの外患誘致などがなかったことは、不幸中の幸いといえるでしょう。
大陸国家の歴史と比較するとわかりますが、内通者のせいで紛争→戦争になることほど、質の悪いものはないですから。
だいたいこのあたりを頭に入れておくと、幕末の外交関係がいかにイレギュラーの連発だったか、幕閣がその対処に苦慮していたかが飲み込めてくるかと思います。
スパンが長いので、全てを把握しておくのは難しいですけれどね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「鎖国」
鎖国/wikipedia