徳川家康は生涯に三度、死んでもおかしくないような危機があったとされます。
そして大河ドラマ『どうする家康』で注目された三河一向一揆です。
「一揆が生命の危機とは、さすがに言い過ぎでは?」
なんて思われるかもしれませんが、この戦いでは徳川の家臣たちも敵方に回る者がいて、戦う相手は単なる農民層ではありませんでした。
そして、そんな彼らの指導者だったのが空誓上人(くうせいしょうにん)です。
ドラマでは市川右團次さんが演じていた、どことなく怪しさもまとったこの僧侶は一体何者なのか?
慶長19年(1614年)7月5日はその命日。
史実における空誓上人の生涯を振り返ってみましょう。
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蓮如の孫として生まれたエリート僧
僧侶は生涯不犯であり、子を為さない――そんな建前と必ずしも一致しないのが日本仏教の特徴。
空誓は、本願寺で名を成した蓮如の孫で、母は権大納言四条隆永の娘でした。
つまりは公卿の外孫でもあります。
永禄4年(1561年)、本證寺9世住職だった玄海が、加賀一向一揆に遠征して討死を遂げると、空誓が顕如の猶子となり10世となりました。
翌年には院家に列し、大僧都にのぼりつめていく……と、こうして経歴を見ていくと、まるで武家のようですね。
名家の子が家業の寺を継ぐ。
聖俗の区別はあまりないように思えます。
時代とともに変わりゆく武装仏僧
空誓の経歴を見ていく前に、当時の仏教勢力、一向宗について確認しておきましょう。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれた【承久の乱】では、僧兵たちが鎌倉武士の前に立ち塞がりました。
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その鎌倉幕府が滅び、室町幕府が成立してゆく中で、従来の荘園制度は徐々に崩壊。
各地で民衆が力を持ち、その中から国衆と呼ばれる在地武士団が台頭してゆきます。
『どうする家康』の主人公である徳川家康も、もとは三河の国衆・松平氏でした。
一方、『鎌倉殿の13人』でも描かれたような、大寺院の権勢を背景にした僧兵は衰退し、変貌を余儀なくされます、
南北朝末期ともなると、権力と神威を盾にした僧兵ではなく、民衆による一揆が起こるようになってゆく。
一向宗による一向一揆と、僧兵による強訴は、似ているようで異なります。
ざっとまとめると以下の通りです。
強訴:寺社勢力の権威と宗教性を背景にして、自集団の権力を守るべく武装して訴える
一向一揆:宗教の教えのもとに集い、民衆の生活向上(徳政や年貢減免)を目的として武装し訴える
寺社の権威を守るだけでは足りない――神威もそれに祈る民の暮らしあってのものではないか?
そんな意識の変化があり、僧兵はむしろ権威側に立つ者と見なされました。
一方、一向宗では、出家した僧兵のみならず、在家信者も武力蜂起に組み込むことができるようになります。
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彼ら庶民による武力は、僧兵よりも対処の仕方が難しいものとなったのです。
『鎌倉殿の13人』に出てきた僧兵を思い出してください。
彼らは、墨染の衣を着て、頭巾を被り、武器を手にしていた。いわば所属する寺院ごとに固まった集団と言えます。
それが一向一揆の場合、庶民や武士も混ざっていて、外からは判別が困難ですから、他ならぬ徳川家康の家臣団から一揆に加わる者が出てきても、防ぎようがないことでした。
では如何にして、三河で大規模な一揆が起きることになったのか?
寺社が持つ守護使不入権を守れ
寺社仏閣には「アジール」という役割があります。
神聖なる領域のことを指し、たとえその人物が犯罪者や逃亡者でも、逃げ込んで来た者は保護する。
そんな特性から、国家による刑罰が確立していない時代には、人々の避難先として、多くの地域で見られました。
例えば『鎌倉殿の13人』では、公暁が源実朝を暗殺するとき、それに協力する僧侶たちもいましたが、彼らの中には平家の落人も含まれていました。
アジール=寺に出家することで、平家の罪から免れたと見なされたのです。
むろん、こんなことがそう何度も起きては危険極まりない。
ゆえに北条泰時はこうした動きを問題視して、御成敗式目では、僧侶が犯罪計画を企むことを防ぐため「熱心に勤めに励むべし」と制定しています。
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また、江戸時代には、夫から逃げたい妻が寺に駆け込むと離縁が成立する「駆け込み寺」がありました。
これもアジールの役割を利用した制度。
こうした寺社仏閣の持つ「アジール」としての性格は、フィクションにも見られます。
一例として歴史マンガに注目しますと、例えば『柳生忍法帖』にはそんな背景がありました。
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あるいは『鬼滅の刃』の岩柱・悲鳴嶼行冥(ひめじま ぎょうめい)をご存知でしょうか?
彼の寺では孤児たちが育てられていましたが、元々は、仏僧の慈悲にすがるため親が捨てていった者たちでした。
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あらためて『どうする家康』の舞台に注目してみますと……。
永禄6年(1563年)、家康の本拠地で三河一向一揆が起こったのも「アジール」の侵犯という問題があったとする説があります。
本證寺に逃げ込んだ犯罪者を、家康の家臣が捕縛したことが契機となった――という説であり、寺側が「守護使不入権の侵害である!」として立ち上がったというのです。
なお当時は「一向一揆」という言葉はなく、ただの「一揆」でしかありません。
「僧兵」にもあてはまることですが、武装した宗教勢力を区別するため、江戸時代以降に用いられるようになった用語です。
ともかく、キッカケはなんであれ、守護不入権を掲げる寺は家康にとって邪魔な存在でしかありませんでした。
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