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【株仲間】
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吉宗と意次に先見性があった!?
江戸期の株仲間の原型は、おおよそ八代将軍・徳川吉宗(将軍任期:1716-1745年)の辺りまでに出来上がっていました。
幕府の成立時期から考えるとかなり遅い気もしますが、公的機関ではないので急いで作ることもできなかったのでしょう。
もう少し時代が進むと、株仲間は組織らしく役員や事務所を構え、年始や八朔(8月1日に徳川家康が江戸城へ来たことに由来するお祝い)などもやるようになります。
そこで、次のステージへ向かうことになったのです。
業界が潤うということは、そこに大きなお金の動きが出ます。
しかも、財政がどんどん苦しくなっていく江戸幕府。
その立て直しのカギを見出したのが、徳川吉宗と田沼意次でした。
株仲間も徐々に腐敗が目立つように
吉宗や意次の時代――。
幕府のみならず各地の大名家は、ある程度、株仲間の存在と販売権の独占を認める代わりに、お金=冥加金を納めさせるようになっていきます。
実質的には税金みたいなものですが、イメージ的には「黄金色のお饅頭(賄賂)」のように思えてしまいますね……って、そろそろこのネタ通じない?(´・ω・`)
多くの組織と同じく、株仲間も徐々に腐敗が目立つようになりました。
職人や奉公人の取り締まりに関する協定を結んだり。
価格が不当に釣り上がったり。
逆にダダ下がったり。
徐々にコントロールが利かなくなっていきます。
そこで天保の改革(水野忠邦)の頃には幕府から「お前ら最近行状がよろしくないから株仲間は停止!」とまで言われてしまうのです。
改革の中心人物だった水野忠邦が「物価高騰は株仲間の流通独占によるもの。だから解散すれば物価が下がってうまくいく」と考えていたからでした。
明治維新後は貿易商に圧迫され、解散へ
しかし、水野忠邦の考えは大ハズレでした。
農村の発達と新興商人の台頭が進んでおり、特に地方においては、株仲間の影響力はさほど大きなものではなくなったのです。
株仲間をどうこうするより、別のところに力を入れて改革すべきだったのです。
そのため、三都(江戸・大坂・京都)以外では取り締まりが行き届かず、三都でも株仲間を停止するメリットよりデメリットのほうが大き……かったので、再興が決定。
以降、スムーズな流通を選んだのでした。
ちろん、再興するにも条件はついています。
専売やパチもんの売買をしないこと。
物価を不当に釣り上げずまっとうに商売をすること。
新しく株仲間に加わろうとする者については、明確な理由がなければ拒まないこと。
さらに、新参者から礼金(入会金)をボッタくらないよう、幕府から釘を差されています。
散々、失敗を重ねた幕府に言われたくねー!って思ってたかもしれませんが、実際、お金に絡んだことはガッチガチに規制が強すぎると、摩擦が生じるものです。
株仲間同士でのトラブルもあり、結局、その輪に加わらない同業者も多かったとか。
★
幕末の開国後、株仲間は貿易商に圧迫されることも多く、経済的にも苦しくなっていったといいます。
そして明治に入ってからは、新政府の意向で株仲間を正式に解散することになり、歴史的な役割を終えました。
各業種の商業組合に移行していった、ともいえますね。
時代の流れも仕組みも大きく変わりましたから、致し方ないところでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「株仲間」
株仲間/wikipedia