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【伊達重村】
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日本史に通底する稲作依存という危険性
日本人と密接な関わりがあり、生きていくのに欠かせない米。
弥生時代に伝わった稲作は、日本列島に広く根付いてゆきましたが、寒冷な奥羽の気候は稲の育成に適していません。
要は不作になりやすい。
東北地方の戦国時代は、血縁の繋がりが強く、しばしば戦い方などが「ぬるい」と揶揄されることがあります。
しかし、それも仕方のないこと。農業生産性の低い地方では、派手な合戦をして多くの人口を減らすことが避けられたのです。
さほどに厳しい東北の稲作経営でしたが、江戸時代初期に転換期を迎えます。
戦乱の世を終えた大名たちが本格的な稲作の改良に取り組んだ結果、石高を大幅に増大させることに成功し、仙台藩も、藩祖政宗から数代かけて有数の米所となりました。
ただし、ノホホンとはしていられません。
気候が寒冷になると、東北の稲はまったく実らなくなってしまう。
そもそも、この稲作依存体質は、日本史の抱える宿命的な欠点とも言えます。
日本人ならお米を食べなくちゃ――そんな言葉は、突き詰めればなかなか危険。米がなければすなわち飢えてしまうことに繋がりかねません。
北海道開拓民や満洲国移住者にとっても稲作の実現は宿願でした。
なんとしても稲作をしたい!
そんな風に奮闘する日本人を見て、満洲に住む人々はこう不思議がりました。
「どうしてそこまでして米を食べたがる? 麦ではいかんのか?」
この疑問こそ、日本史を考えるうえでのヒントになります。
中国大陸の場合、南は稲、北は麦と、気候にあわせて穀物を分けて育てています。
日本でも、かつてはそんな工夫もあったのですが、江戸期以降、米の地位だけがどんどん高くなってゆくのです。
結果、それ以外の主食は見下されるほどでした。
例えば、稲作に不向きな土地であった薩摩藩ではサツマイモが重要な主食となっていました。それを悪口のネタとされ、薩摩藩士は「芋侍」とバカにされてしまいます。
あるいは小麦粉の生産が盛んで、うどんが名物である地方出身者は「あのうどんを食っている奴」と言われることもあったほど。
なぜ江戸時代は、そこまで稲作依存度が高まったのか?
全国各地から、はるばる米会所に集められた米。
その価格が上がるか、下がるか。
石高制度が根底にあるのは確かですが、商人たちがマネーゲームに興じた結果、米の商業的価値が高まったのです。
伊達重村の治世には、こうした時代背景がありました。
全国屈指の稲作地帯となった仙台藩。
米は、気候変動の影響を受けやすく、東北ではその危険性が一層高いのに、仙台藩では「米を売ること」を前提に、藩財政のやりくりを考えていました。
大藩としての格式も維持したいし、プライドもある。
けれども、財政は不安定である。
そんな危うい状況の中で、若き重村は殿となっていたのですね。
飢饉に無策、悪名が広まる仙台藩
父・宗村の寿命を縮めたともいえる仙台藩の飢饉。
天候不順も重なって、伊達重村の代にはますます悪化していました。
仙台藩首脳部は、飢饉に対しあまりに無策であったと後世評されます。なにせ宗村が病床で捻出した救恤金の一万両すら、支出した形跡がないのです。
宝暦の飢饉の時点で、仙台藩の餓死者は2万人から4万人と推察されます。
さらに全国的に飢饉が悪化した天明の飢饉ともなると、最大で推定30万人が死亡したともされます。
仙台藩は、周辺の藩に米を買い求めました。
飢饉で悲惨な目に遭っているのはその他の奥羽諸藩も同じことであり、余裕などありません。伊達藩の愚かさは軽蔑されました。
米がないのに、米を売ることを前提にしていることくらい、諸藩は理解しています。
大藩としての格式を保つため、領民を見殺しにするとは何事か!
彼らは、そうして仙台藩に対して呆れ果てていたのです。
【天明の飢饉】は、世界規模の気候変動の影響もあります。
フランスでも飢饉が発生し、【フランス革命】につながったとされます。
それほどまで深刻な状況であるにも関わらず、仙台藩は政治的に無策、藩の上層部が無能とされても致し方ない状況でした。
仙台藩が際立った無策を見せつけ、死屍累々となる一方、一人も餓死者を出さない藩もありました。
松平定信が藩主をつとめる白河藩です。
この飢饉の際の対応が、松平定信の老中待望論を形成することとなります。
領民の苦難を顧みない重村
伊達重村の評価が厳しくなってしまうのはなぜか?
むろん、飢饉に対して無策であったことはあります。
それだけではなく、同時代に生きたフランス王妃、マリー・アントワネットと通じる要素もあります。
重村より一回り若い1755年に生まれた彼女は、累代の負債が重なるルイ16世の時代に、イメージを悪化させかねない軽率な行動をとりました。
プチ・トリアノン宮殿建設。
豪華なドレス。
賭博三昧。
王妃の支出範囲内といえばそうですし、【アメリカ独立戦争】援助への戦費捻出と比較すれば、些細な金額といえます。
しかし民衆からすれば「俺たちが飢えに苦しんでいるのに、王妃はなんなんだ!」と怒りをたぎらせる要因となってしまう。
重村もそうでした。
領民目線でその行状を振り返ってみると、芳しくない行動が目撃されています。
重村は藩祖政宗以来の狩猟好きでした。
鷹の産出に熱中し、領内を長い時間をかけて回る。
何十羽も鷹を連れて領内を回り、獲物を自慢する姿は、領民からすれば腹立たしいものであったことでしょう。藩領内には苦々しい思いが伝えられています。
鷹狩りだけならば、悪名は領内のみに止まります。
全国区にまで高めたのは、甚だしい【猟官運動】でした。
田沼意次はじめ、幕閣、大奥にまで贈賄した大名として、重村は歴史に悪名を刻むこととなるのです。
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