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【朱楽菅江】
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狂歌で名を為す
そうはいっても泰平の世が続き、江戸で将軍をお守りする必要などない時代。
田沼意次の政治改革も経て、江戸に住む者は武士から町人まで、生活に余裕が生まれていました。
幕臣である朱楽菅江(あけらかんこう)もまた余技に時間と才能を費やすことができます。
江戸の六歌仙こと内山椿軒に弟子入りし、そこで頭角を現してゆくと、狂歌の代表作家にまで上り詰めました。
天明5年(1785年)に出版された代表作『故混馬鹿集』のタイトルからして遊び心の塊と申しましょうか。
「ここんばかしゅう」と読むのですから、完全におちょくっているというか何と言うか……まぁ、狂歌とはそういうものでありますね。
振り返ってみると、朱楽菅江はなんと恵まれた人物なのかとも思えてきます。
本業は由緒ある御手先与力。
そして副業の狂歌でも大成功。
言ってみれば江戸後期のセレブです。
しかも妻の節松嫁々(ふしまつのかか)と共に「朱楽連」というサークルも結成するのですが、この妻も幕臣の娘でありながら、夫婦揃ってクリエイターとして優れていました。なんとも素晴らしいではありませんか。
与力という職業が、狂歌師としての才能を磨いたともいえます。
なにせ二十騎町では江戸っ子と顔を突き合わせて過ごし、世の動きを見ることができる。
世相を面白おかしく切るのに、これ以上のポジションもないでしょう。
お上に対する批判精神があった
ここで一つ江戸時代のルールを確認しておきたいと思います。
当時の人々は、職業ごとに名前を使い分けました。
現代人が職業上で使う本名と、SNSやWEBサイトなどで使うペンネームに分けるようなものだとお考えください。
本稿の朱楽菅江は、前述の通り狂歌師としての名前です。
いわば文人であり、東アジアの特徴として、こうしたタイプのクリエイターは往々にしてマルチな才覚を発揮します。
文章を記せば、絵も描き、狂歌もこなす。
近世以降、そうしたクリエイターの作品が世に広まりながら、日本の文化も発展してゆくのですが、大きな特徴として江戸時代から“お上に対する批判精神があった”ことも重要でしょう。
現代日本では、令和になってまで、
「エンタメに政治を持ち込むな」
という妙な理屈が持ち出されますが、江戸時代後期でも「ケッ」と笑われるお話。
当時のクリエイターたちは、いかにして幕府の目をかいくぐりながら批判精神を発揮していたか。
規制がかかれば、それを掻い潜って新たな作品を作っては、版元が売り捌き、それを喜んで買い漁る江戸っ子たち。
タフな彼らがいればこそ、粋の文化も生まれ育ったのです。
武士でありながら狂歌師として成功した朱楽菅江。
江戸リア充の存在を知り、今を生きる私たちは彼らより自由なのか、闊達なのか、人生を楽しんでいるのか。
そうできていないとすれば、一体なぜなのか。
大河ドラマ『べらぼう』を見ながらそんなことを考えてみるのも、それこそ粋ではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
小池正胤『反骨者大田南畝と山東京伝』(→amazon)
杉浦日向子『一日江戸人』(→amazon)
他