田沼意知(左)に斬りかかる佐野政言/国立国会図書館蔵

江戸時代 べらぼう

田沼政治を引き継いだ田沼意致(意次の甥)従兄弟の意知が不慮の死を迎えて

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一橋家家老として、意次と協力し将軍世子を定める

意誠の子であり、意次の甥である田沼意致は寛保元年(1741年)に生まれました。

小姓組の番士から奉公を始め、小納戸を経由すると、十代将軍・徳川家治の嫡子である徳川家基に付けられました。

徳川家基/wikipediaより引用

家基は次の将軍と目されており、順調な出世といえる。

次期将軍近くに仕え、さらには父の跡を継ぎ、安永7年(1778年)には一橋家家老となりました。

しかしこの翌安永8年(1779年)、思わぬ事態が起こります。

家治唯一の男子であった家基が、若くして急死を遂げてしまったのです。

急な空位となった次の将軍は誰とするか?

新たな政治工作が始まった局面において目立つのが、この田沼意致です。伯父の意次と自身が動いて、次の将軍下でも政策の舵取りを行うためにはどうすべきか。

意致が一橋藩家老となれば、御三卿のうちでも一橋家が浮上するのは必然。

そこで浮上してきたのが一橋治済の子・豊千代であり、天明元年(1781年)には正式に次期将軍に決まりました。

11代将軍の徳川家斉です。

徳川家斉/wikipediaより引用

家治の信頼が権勢の基盤である意次にとって、次代へのスムーズな次期将軍決定は重要な布石となり、一橋家に恩義を与えたことにもなります。

実際、後に11代将軍が家斉になると、彼は家基の墓参を欠かしませんでした。

このとき、甥である意致は一橋家家老とし、重要な役割を果たしたことでしょう。

家斉が将軍世子となると、意致は家老を辞し、小姓組番頭格・西丸御側取次見習いとなりました。

このまま順調にいけば、意次時代が終わっても、その子である意知と、意致が協力し、従兄弟同士で幕政を引き継げます。

しかし、現実はそうなりませんでした。

 


田沼政治の終焉にたちあう

家斉が将軍世子となった年から始める天明年間は、厳しい時代となりました。

天災とそれに伴う飢饉が相次ぎ、政治への不満が高まったのです。

天災は不可抗力でありながら、飢饉の背景には田沼意次の政策があるのではないか!と高まる民衆の不満。

高騰する米の値段に、人々は暗い顔をするばかりです。

そんな折のことでした。

天明4年(1784年)、田沼意知が江戸城内で佐野政言に斬りつけられ、そのまま命を落とす事件が起きてしまうのです。

佐野政言に斬りかかられる田沼意知(左)/国立国会図書館蔵

結局、田沼時代も一代で終わるのか――そう嘆かれたものですが、嫡男の死という衝撃を受けながらも、田沼意次は政務に励みます。

しかしそれも天明6年(1786年)、将軍家治が最期を迎えるまでのこと。

反田沼の姿勢であった徳川家基、その母であるお知保は「我が子の死は意次や一橋家が絡んだ陰謀ではないか?」と猜疑心を募らせていました。

そうした状況のもとで家治が亡くなってしまうと、田沼意次へ反感を持つ者たちの怒りは抑えきれなくなります。

かくして意次は失脚してしまうのです。

こうした処断命令を取り次ぐ役目は、田沼意致に回ってきました。

敬愛する伯父に厳しい処断を告げる役割は、どれだけ辛かったことか……。

結局、この【田沼時代】は、武士の倫理が堕落したと評されることになります。

皮肉にもそれを証明したのは、失脚後に田沼意次を見限った武士たち。

意次と関係を結んでいた幕臣や大名たちは、次から次へと絶縁を宣言してゆきました。利害関係だけの結びつきであり、呆れてしまうほど露骨なものでした。

甥である意致もこの流れに巻き込まれてゆきます。

天明7年(1787年)、意致は御用御取次を罷免。

菊の間縁詰という閑職へ追い込まれました。

 


【田沼時代】を懐かしむ江戸っ子たち

意致は時を置いて再登用されるも、もはや田沼家が往事の勢いを取り戻すことはありません。

【田沼時代】を真っ向から否定するような松平定信以降の政治は、あまりに締め付けが厳しいものでした。

そうなってからようやく、江戸っ子たちは【田沼時代】を懐かしむことになるのです。

そして【寛政の改革】への嘆きが満ちていた寛政8年(1796年)、意致は世を去りました。

田沼氏は断絶したわけではありません。

幕末の田沼意尊は、若年寄をつとめています。

その意尊が元治元年(1864年)に起きた【天狗党の乱】鎮圧を命じられ、一橋慶喜の意に添い、苛烈な処断を下したことは運命の皮肉といえるのかもしれません。

天狗党のあまりに苛烈な処断を知り、大久保一蔵、のちの大久保利通はこれで幕府も終わりと悟ったとされます。

田沼と一橋、最後の因縁が交錯してから4年の後、果たして幕府が滅びるのでした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
藤田覚『田沼意次』(→amazon
江上照彦『悪名の論理』(→amazon
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon

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