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【田沼意次】
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家治の代でも信頼を受け 出世を続ける意次
日本史のみならず、世界各地の君主制において、近世にはある特徴があります。
君主本人ではなく、側近が政治を動かすことです。
江戸幕府の場合、五代・徳川綱吉の時代に創設された【側用人】がこの側近にあたり、その治世においては牧野成貞と柳沢吉保が権勢を振いました。
六代・徳川家宣、七代・徳川家継の時代には、間部詮房が権勢を振います。
紀州から江戸へ乗り込んだ八代・徳川吉宗の政治改革は、この間部詮房の罷免から手を付け、吉宗は【側用人】を廃止し、【御用取次】としました。
側用人も御用取次も役目は同じ。つまり、ただの看板の取り替えであり、吉宗は紀州時代からの気心の知れた側近をこの職に就けたのです。
ただし、側近政治の構造は残っていて、そこには不文律がありました。
将軍の代替わりをすれば側近を交代させ、人事を一新する――将軍の生前、どれほど権勢を誇った側近でも、代替わりで権力の座から立ち去ることが暗黙の了解だったのです。
その慣例を崩したのが、田沼意次でした。
家重から家治の時代になっても失脚するどころか重用され続け、将軍側用人として仕事をこなすたびに加増されました。
以下の通りです。
明和4年(1767年):板倉勝清の後任として御側御用取次から側用人となる。5000石の加増。従四位下となり、2万石の相良城主。
明和6年(1769年):侍従、老中格となる。
安永元年(1772年):相良藩5万7000石の大名となり、老中も兼任。このとき相良城を建て、一国一城の主となった。
たった600石の旗本から、とんとん拍子で5万7000石の大名にまで大出世。
側用人から老中にまで昇進し、兼任した初の人物となりました。
この変則的な加増により、分散知行を有した意次は各地に縁の地があり、今年は大河ドラマの影響により様々なイベントが開催されるかもしれませんね。
しかも側用人は、中奥に入ることができる限られた役職でもありました。
老中は御用部屋にまでしか入ることできず、中奥に将軍がいれば、側用人を通して用件を伝えさせていた、その手間が省かれることになったのです。
思い切った政策を断行するには一定の地位が必要であり、田沼意次はそれを手にしました。
とんとん拍子の出世も、家治が権限を強めるためにそうしたともいえます。
しかし、江戸幕府は様々な規範において家格が重視される――その点、田沼家は圧倒的に不利なポジションにいました。
三河以来の家同士ならば、姻戚関係は何代にもわたって形成している。
ところが田沼家は、急ピッチで人間関係を形成しなければならず、意次の嫡子である田沼意知と、自分の娘を結婚させた松平康福はこの代表格です。
同時に意次は、大奥にも顔が利きました。
美男で颯爽とした彼を見ると、大奥の女たちはうっとりとしていたとも伝わり、仙台藩主・伊達重村の政治工作の際は、大奥老女の高岳とも深い関係ができています。
贈収賄のイメージが未だに強いのも、ある意味仕方のないことでもあります。
『べらぼう』第一回でも、贈賄を突き返すようなことはありませんでしたが、贈収賄に関する感覚は江戸時代と現在では異なります。
要求を叶えるために贈収賄をすることは、むしろマナーでした。
ただし田沼意次は、あまりに甚だしかったことは確かなのでしょう。
政治転換に直面した時代ならではの改革
田沼意次による田沼政治とは、これまでの政治の総決算であり、転換点ともいえました。
天下泰平の訪れと共に幕を開けた江戸幕府は、財政的にも余裕のあるスタートでした。
しかし四代・徳川家綱の時代に【明暦の大火】が発生してしまいます。
死者は十万人を超え、江戸城も江戸城下も燃え尽きたこの火災からの復興には莫大な費用がかかりました。
幕領の新田開発もこの頃には頭打ちとなり、激増した支出に対し、収入の増加は見えてきません。
五代・徳川綱吉の時代は華やかな【元禄文化】が花開き、そのぶん歳出は増え、財政はまたも悪化。
そこで八代・徳川吉宗は、質素倹約を徹底し、年貢米を増やす諸政策を行い、なんとか赤字を立て直すことに成功します。
しかし年貢米を増やすということは、納める側にとっては負担が増えたということであり、九代・徳川家重の時代ともなると、いよいよ限界に達し、前述した【郡上一揆】もそのあらわれでした。
ここから先は倹約ばかりに努めていても仕方ない。
むろん新田開発を止めはしませんが、同時にお金やその動きを重視する「貨幣経済」に切り替えていく必要がありました。
では意次には、具体的にどんな政策があったのか?
・年貢徴税の増加
・新田開発
・鉱山開発
・幕府専制品の拡大(朝鮮人参、明礬、竜脳、石灰、灯火、鉄、真鍮など)
・朝鮮人参国産化
・白砂糖国産化
・公金貸付の拡大
時代の申し子といえる平賀源内も、こうした政策の影響ありきの活躍ともいえます。
本草学者であった平賀は、輸出に頼っていた漢方薬剤の国産化を担う人材として脚光を浴びました。
多彩な才能を誇る彼は、鉱山開発や輸出品をめざした発明等、そのアイデアを活かした活躍をするのです。
また田沼政治では【運上】や【冥加金】が重要な役割を果たしました。
『べらぼう』第一回でも、蔦重は「吉原は運上冥加金を払っている」と主張しましたが、あれは特権を確保するかわりに金を差し出すシステムだったんですね。
あの第一回では、すでに田沼政治の問題点が浮かんできます。
【運上】や【冥加金】を払えば特典を得られてしまう……ならば……と、贈収賄政治に陥ることは当然の帰結だったのです。
国益、グローバル経済を意識する時代へ
田沼意次が見据えた経済政策は、国内だけには留まりません。
先にあげた朝鮮人参と白砂糖の国産化は、輸入超過で赤字続きだった貿易を抑制するための政策でした。
それが軌道に乗ったならば、次の一手は何か?
というと貿易の黒字化となります。
近世の東アジアは、清、朝鮮、そして日本も海禁政策を取っていました。
隣国の清は、当時の世界総GDPの三割を占めるとされるほど、世界一の経済大国です。
茶と絹の需要、さらにはヨーロッパで高まるシノワズリ(中国趣味)により、貿易黒字がとにかく大きかった。
天明年間(1781−89年)は、田沼意次が権力を掌中におさめ、思うがままに政策邁進へと向かい続けることのできる時代への突入となります。
印旛沼の開拓といった大規模な新田開発を進めながら、海外貿易へも目が向けられました。
オランダ商人たちとしては、折しもシノワズリブームを目の当たりにしています。
日本産の工芸品を売り捌けるとなれば非常にうまい話であり、もっと対外に積極的な目を向けないかと期待するようになりました。
さらには蝦夷地に来航し始めたロシアにも注意を払わねばならない。
寒冷地であるロシアにとって、南に立ち寄ることのできる港があることは大きなメリット。
彼らはしばしば蝦夷地に来航し、食糧取引を求めてきたのです。
江戸時代の海禁政策といっても例外はあります。
貿易赤字の解消は課題であり、すでに清相手には日本では需要が低くても中華食材となる海産物等を輸出していました。
【俵物】と呼ばれ、中でも煎り海鼠、干し鮑、鱶鰭(フカヒレ)は【俵物三物】として重宝されます。
そうした【俵物】の輸出ならば既に実施しているのだから、相手がロシアでもむしろありでは? そんな発想の転換があってもおかしくはない状況です。
そんな蝦夷地政策において、大きな役割を果たしたとされるのが仙台藩医・工藤平助でした。
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