こちらは4ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【田沼意次】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
家治の死により 失脚する
天明年間前夜、安永8年(1779年)、徳川家治唯一の男子であった徳川家基が、わずか18で急死を遂げました。
弟・意誠とその子・意致は一橋家家老を務めており、田沼と深い縁があります。
この人脈を活かし、意次は一橋家の徳川治済の子・豊千代を家治の後継者と定めていました。
こうして恩を売った十一代将軍の御代でも、権勢を保てるという意図があったのでしょう。
しかし、このことが大きな障壁となってしまいます。
徳川家基の母であるお知保は、このトントン拍子の後継者選定を疑念を込めて見つめていたようです。
我が子に死なれ、将軍の母となる道も絶たれ、彼女がどれほど絶望したことか……。
徳川家基は生前、田沼政治に疑念を呈し、批判してきました。お知保はそのこともあってか「意次が息子を謀殺したのではないか?」と疑念を抱いたようなのです。
長いことくすぶっていたこの疑念は、徳川家治が病床につくことで再燃してきます。
家治の診察は奥医師が行なっていたものの快復せず。意次の提案で町医師の日向陶庵と若林敬順が加わります。
しかし、これを契機に家治の病状はますます悪化し、再び町医者を外してみると、家治の病状は持ち直しました。
結果、お知保には、意次が毒殺を計画したとしか思えなくなります。
お知保の怒りと疑念はかくして広まり、さすがに意次も身の危険を覚えたのか、家治が死去すると、すぐに病気を理由に老中を辞職しました。もはや居場所はないと悟ったのでしょう。
その後の意次の転落は、あっという間でした。
同年のうちに2万石が没収され、神田橋上屋敷と大坂蔵屋敷の返上を迫られるだけでなく、謹慎も命じられます。謹慎は、年末には解除されたものの、もはや無力でした。
田沼人脈も、次から次へと絶縁を宣言。
幕僚としての道が閉ざされるだけでなく、天明7年(1787年)には相良藩二万七千石も没収され、あらためて隠居謹慎を命じられました。
孫の田沼意明は陸奥下村に減封され、大名として最低となる一万石のみの相続へ。相良城も没収されます。
柳沢吉保や間部詮房のように、将軍側近として権勢を振るうも、その主君の死によって栄華が終わったとされる人物はいます。
しかしあくまで辞職にとどまるものであり、ここまで苛烈な処断を受けた例はありません。
天明8年(1788年)、田沼意次は没しました。
享年70。
田沼の改革は終焉となり、結局、諸問題は先延ばしにされるのでした。
もしも田沼政治が続いていれば……
田沼意次のあと、老中となった松平定信は、徳川吉宗の孫であることを誇りとしてきました。
定信は家基亡きあと将軍となる可能性があったのに意次によって妨害されたという恨みがありました。
「もしできるならば刺してやりたい」
そう語ったとされるほどです。
定信が、白河藩松平家へ養子に出されたのは徳川家基が夭折する前のことであるのですが、田沼に追い出されたことは確かです。
そんな定信の政治方針は、吉宗路線への回帰でした。
とはいえ田沼時代の政策は不可逆的なものもあり、すべてを方向転換できたわけではありません。
問題の先延ばしとなった部分もあります。
田沼意次の政治に大きな期待を寄せていたのがオランダ人でした。
日本が輸出用の産品を手がけて売り出せばどれほど素晴らしいか――そう期待してたオランダ人と蘭学者たちは、田沼意知の横死の後にこう語り合っていたのです。
「田沼の開国政策を止めようと企んだ誰かが、裏でこの事件の糸を引いたのだろう……」
その真偽はわかりません。
しかし、この願いはオランダ人はこの先も抱き続けます。
田沼時代のあとにも、オランダは何度も幕府に対して開国を求めてきました。【黒船来航】のあとは、今後どうすべきか、輸出すべき品について丁寧に助言してきたのです。
蝦夷地政策もそうです。
フランス革命後のナポレオン戦争もあり、ロシアは極東の日本を構っている余裕を失いました。
そのため、蝦夷地沖からロシア船の影が一時的に消えましたが、それも一時の安寧に過ぎず、松前藩をどうにも信頼できない幕府は蝦夷地探索と警備に尽力することとなります。
歴史に「もしも」はありえないとされます。
しかし、そうはいっても田沼意次の人生と政治を辿るときには大きな意義があるのではないでしょうか。
田沼の政策は、幕末以降を先取りしていたといえる。
もしもこのまま続けていたら、日本史は大きく変わっていたのではないかと思わせるのです。
毀誉褒貶がつきまとう田沼意次
大河ドラマ『べらぼう』で田沼意次役に渡辺謙さんが決まったことが告知されると、驚きの声があがりました。
田沼意次の再評価を期待する層もいたのです。
さらには、こんな陰謀論も語られ出します。
「田沼意次の贈収賄は後世の捏造、松平定信一派が作り上げた記録にしか書かれていない」
こうした極論もありますが、もっと冷静に見ていきたいところです。
意次の贈収賄がなかったとは言い切れません。
しかし江戸時代にはマナーとしての贈収賄が定着しており、彼一人だけが励んでいたことでもない点には注意しなければならない。
田沼意次は出自が由緒正しくないことも、悪評の一因として考慮する必要がある。
意次は身分に囚われることなく、才知あふれるものは登用し、意見を取り入れました。
そうした革命的な人物は、成功すれば賞賛されるものの、失敗すれば必要以上に貶められるものです。
毀誉褒貶がつきまとう田沼意次については、何度も再評価はなされています。
まず、松平定信の質素倹約に疲れ果てた江戸っ子たちは既に音を上げていたことが、この有名な狂歌からわかります。
白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき
幕末の能吏といえる川路聖謨もこう評しています。
「田沼意次は判断力に優れた豪傑であり、悪名だけ語られるのはおかしいのではないか?」
明治時代以降は「日本史上の三大悪人」とまで言われましたが、辻善之助、大石慎三郎らによって再評価されてきています。
田沼意次とは、近代以降の日本にとっては不都合な人物とも言えます。
明治以降、日本の近代化を実現できたのは薩長あってのものとされ、江戸幕府は無為無策で何もしていなかったと定義された。
しかし実際は、田沼時代にロシアを相手に開国を目指しています。
幕府の対応が万全でなかったから明治維新は起きたとはいえますが、無為無策は明らかに言い過ぎ。
第二次世界大戦後も、江戸時代は否定すべき封建時代とされ、なかなか再評価されずに来ました。
これまで散々貶められてきた江戸時代は、徐々に再評価も進んできましたが、まだまだ不十分。
田沼意次のように毀誉褒貶が激しい人物ともなると、長い道のりがあるのでしょう。
『べらぼう』は、田沼意次を極端なまでに美化するのではなく、革新的、よくも悪くも近代を先取りしていた政治家として描くと思われます。
その描写に期待するばかりです。
みんなが読んでる関連記事
田沼意知(意次の嫡男)が殺され 失われた江戸後期の発展 そして松平の圧政がくる
続きを見る
佐野政言は世直し大明神どころかテロリスト 田沼意知を殺した理由は嫉妬から?
続きを見る
田沼政治を引き継いだ田沼意致(意次の甥)従兄弟の意知が不慮の死を迎えて
続きを見る
『べらぼう』主人公・蔦屋重三郎~史実はどんな人物でいかなる実績があったのか
続きを見る
蝦夷地の重要性を田沼意次に認識させた工藤平助~仙台藩が誇る多才な医者だった
続きを見る
小便公方と呼ばれた九代将軍「徳川家重」実は意次を重用した慧眼の主君だった
続きを見る
徳川吉宗は家康に次ぐ実力者だったのか?その手腕を享保の改革と共に振り返ろう
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
藤田覚『田沼意次』(→amazon)
江上照彦『悪名の論理』(→amazon)
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon)
他