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【松前道廣】
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どこか不穏な外様大名人脈
大河ドラマ『べらぼう』では、松前道廣の参加していた放埒な宴に、なんとも個性的な面々が揃っていました。
この宴に参加していた田沼意次が、その後、徳川家治に「どこか不穏だ」とこぼす場面がありましたね。

徳川家治/wikipediaより引用
家治は「一橋治済が外様大名と親しいのはわかっているだろう」と語り、それでも浮かない顔をしていた意次。
田沼意次が不穏に感じる気配はわかります。
江戸幕府の政治中枢にいる幕閣に、【御三卿】である一橋治済は加われません。【外様大名】も同様です。
それがこうして集い何か話し合っているとなると、良からぬことを企んでいると警戒するほうが自然なことでしょう。
この面々は、実際に懇意であった人脈を元にしています。
あの宴には仙台藩主・伊達重村がいてもおかしくはありませんでした。
重村は『赤蝦夷風説考』筆者である工藤平助の主君でもあり、この時期の仙台藩はロシア研究の最先端でもあったのです。
ただし、劇中で家治が言っていたように、彼らが上機嫌で遊んでいるだけならば問題はありません。
あくまで良識の範囲内であれば……。
松前道廣は、よりにもよって吉原で散財し、女郎を落籍したことも複数回に及びました。これが問題視されたのです。
確かに、江戸時代の前半は、武士が吉原の上客でした。
2代・高尾太夫が仙台藩主・伊達綱宗の意に沿わず、惨殺された事件が【仙台騒動】の一因であるという伝説もあります。

月岡芳年『月百姿』に描かれた2代目高尾太夫/wikipediaより引用
しかし、徳川吉宗の倹約令以降、吉原から武士の足は遠のいたとされます。
大名が遊び呆けたとなれば、悪名が広まることは避けられない。
そんなタブーをものともせずに堂々と遊んでいたら、問題視されるのは当然の帰結でしょう。
外様大名人脈という燃料は幕末に爆発する
いくら薪が積まれようと、火薬と導火線がなければ爆発はしない。
時代が下ると、そうした要素がここに加わってゆきます。
薩摩藩と松前藩は、それぞれ琉球と蝦夷地を経由して海外との交易ができ、情報や金銭を蓄えることができました。
仙台藩から広まってゆくロシアの情報は、日本人の意識を変えてゆきます。
なぜ、西洋は優れた技術を持っているのか?
なぜ、彼らは急速に豊かになってゆくのか?
海外へ目線を向ける者もいれば、日本こそ唯一無二の神国だと考えることで、安寧を求める思想も湧いてきます。
そんな愛国心を高めるものとして【尊王思想】があります。
こうした外様大名の交友関係に、奔放な尊王思想家である高山彦九郎が加わることも必然の流れと言えました。

伊勢崎藩家老・高山彦九郎/wikipediaより引用
幕閣から遠い勢力に、金、情報、そして将軍よりも天皇を上位とする尊王思想が加わるとなると、実に危険。
2027年『逆賊の幕臣』では、こうした外様大名、一橋、尊王思想の結びつきが幕閣を揺るがす様が描かれることでしょう。
ロシア相手に抜荷をするのに、防衛は極めてお粗末
松前道廣が登場した21回は、田沼意次がロシア交易の可能性を見出すところから始まりました。
松前藩はすでにロシアと【抜荷】(密貿易)をしていると言及されていましたね。
これは大問題です。
単に、無許可で金儲けができるという話ではなく、国防上のセキュリティホールとなり得たからです。

伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の蝦夷地/wikipediaより引用
蝦夷地で貿易できるなら日本でも大丈夫――そう思い込んでロシアが南下してきたら大変なことになってしまいます。
開国および交易思考の田沼意次でしたら、問題とはならないかもしれません。もしも意次の路線で、ロシア船の寄港を認可していたら、その後の歴史は全く異なったものとなっていたでしょう。
しかし、です。
田沼意次のあと、松平定信は真逆に方針転換しました。
神君家康公の時代に原点回帰し、蝦夷地を支配することは目指さない。
外交についていえば家光時代以降の原則に従い、貿易も制限することとします。
そうなると、松前藩の政策は全くもって問題だらけとなるわけです。
松前藩はロシアとの通商要請を拒んだともされますが、ここまで大きなこととなると幕閣の意向も反映されているでしょう。
ロシア側からすれば、何がなんだかわからない状況です。
【抜荷】はしているし、田沼時代には交易に前向きだった。
それが一転して拒むとは何事か?
この幕府と松前藩の、ロシアからすればわけのわからない態度が、事態を悪化させたことは否定できないわけです。
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