松前廣年

『夷酋列像』イコトイ(乙箇吐壹)作:松前廣年/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』ひょうろく演じる松前廣年(蠣崎波響)史実ではアイヌ絵で有名な凄腕絵師

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商場知行制から場所請負制へ

松前藩の状況も確認しておきましょう。

当時は松前でも【田沼時代】らしい変革に直面していました。

経済規模が大きくなっていたのです。

寒冷地である蝦夷地では稲作ができず、松前藩はアイヌとの交易で収益を得る特殊な成り立ちを幕府に許されていました。

当初は【商場知行制】という形式で、藩士たちが交易に関わっていたのです。

しかし時代がくだると経営そのものが厳しくなり、商業船から【運上金】を徴収し、商人に公益を任せる【場所請負制】へと移行してゆきます。

江戸時代の復元船「浪華丸」/photo by I, KENPEI wikipediaより引用

『べらぼう』でも田沼意次はじめ、【運上金】のことがしばしば話題にのぼっておりますね。

その政策がどんな影響を及ぼしたのか? 松前藩に答えの一端があるといえる。

【場所請負制】にはメリットがありました。

船を用いた交易はしばしば海難事故の危険を伴います。魚介類の不漁というリスクもあります。

しかし【運上金】は必ず上納せねばなりません。

松前藩側は常に一定の収入があり、リスクを避けることができます。

一方で商人としては、リスクを冒してでも挑むことになる。一攫千金を狙ういわば山師的な商人を惹きつけることになります。

このリスク軽減のための工夫が差別につながった一端として、こんな話が北海道のアイヌには残されています。

「シャモ(和人)は鮭を10匹渡すと、8匹ぶんの値段しか払わない」

商品を納入した際、最初と最後の分を数えず価格を決めたと伝えられているのです。

アイヌはどうせ数がわからないからそうして騙したのだろうと、苦い経験として語り継がれてきました。

ただ、和人側の理屈は推察できます。

鮭を確実に10匹手に入れたい。そのうち2匹が売り物にならなかったり、事故で失われてしまったらどうすればよいのか?

リスクを避けるためにも多めに12匹確保して10匹として扱おう……こうした思考をするのはありえたのではないでしょうか。

葛飾北斎『塩鮭と鼠』/wikipediaより引用

むろん、アイヌからすればたまったものではありません。

言葉が通じにくいこともあり、買取側の意図も説明しなかったからこそ、苦い記憶として残されてしまった。

そしてアイヌと和人の間にあるこうしたすれ違いは【場所請負制】によりますます悪化してゆきます。

 


アイヌは人口が激減

鮭の塩引きはこのころから和人の食卓にのぼる定番のメニューとなり、アイヌの生活に打撃を及ぼしました。

カムイチェプ(神の魚)と呼ばれるほどアイヌにとって大事な鮭――それが乱獲されるだけでなく、捕獲のため労働力として駆り出されるのです。

食糧事情が悪化したうえに酷使されるとなれば、アイヌはどうなるか。

田沼意次の密命のもと、平秩東作は蝦夷地を見聞し、記録に残しました。

松前は田舎どころか、江戸や大阪も及ばないのではないかと思われるほど、繁盛していることが驚きをもって記録されています。

特産品は、遠く長崎まで運ばれ、海を超えて輸出。

まさしく田沼意次が理想とする経済の形がありました。

しかし、その繁栄はアイヌ搾取のうえで成立するものでもあったのです。

アイヌの人々(1904年撮影)/wikipediaより引用

こうまで商業が発達すると、アイヌの位置付けが変わってきます。

交易の民として営まれてきた暮らしが労働者として組み込まれてゆく。

しかも天明年間は本州で飢饉が起こり、食いっぱぐれた労働者たちが蝦夷地へ押し寄せ、彼らはアイヌを下に見て、労働の不満の捌け口としてしまいます。

搾取に組み込まれたアイヌの生活は激変しました。

労働ゆえの集住と、和人が持ち込んだ伝染病は、重大深刻な問題となってアイヌを襲い、抵抗力がないまま蔓延し、多くの方が病没したのです。

かくしてアイヌの人口は激減。

商売を巡って和人との摩擦も増えてゆきました。

 


クナシリ・メナシの戦いとその戦後処理

寛政元年(1789年)、事件はアイヌと和人の摩擦から起こりました。

クナシリのサンキチが、和人から勧められた酒を飲んで亡くなったのです。

これが発端となり、クナシリ場所請負人・飛騨屋に対し不満を抱いていた同地方のアイヌが蜂起。

アイヌ側の対応は分かれたものの、ネモロ場所・メナシのアイヌは応じました。

出稼ぎの和人と藩士に死者が出たため、松前藩は鎮圧へ。

結果、蜂起したアイヌの首謀者37名は処刑され、その首と共に43人のアイヌが松前藩へ連行されてゆきました。

現代では【クナシリ・メナシの戦い】とされるこの戦い、当時は「寛政蝦夷蜂起」と称されましたが、この呼び方から当時の価値観も浮かんできます。

戦後、兄である松前道廣は、弟に対し家老としてではなく、絵師・蠣崎波響としての技能を生かすよう求めてきます。

結果、描かれたのが、先程掲載した『夷酋列像』となります。

この絵は鮮やかな服飾を身につけています。技法も確かであり、アイヌの姿は色鮮やかかつ精密。

しかし、注意すべき点はあります。

参考となる先行作品はあり、その中には中国の仙人のように、アイヌとは関係ないものもあります。

12人の名前にせよ、松前に連行された者の名は5名のみでした。

想像や先行作品をもとにして描いたのかどうか?

目的は何だったのか?

この絵のアイヌの目つきは特徴的とされます。

当時のアイヌを描いた作品に共通する特徴ですが、和人と明らかに異なる夷(えびす)であることが直感的にわかるよう、誇張があるとされます。

そんな技法だけではない、見るものを射るような何かがこの絵にはあります。

描かれた中で唯一の女性であるチキリアシカイは、クナシリの長老・ツキノエの妻でした。

『夷酋列像』チキリアシカイ(窒吉律亞湿葛乙)/wikipediaより引用

彼女ら捕縛されたアイヌと共に運ばれてきた首級の中には、彼女の息子のものも含まれていました。

そんな背景を知ると、彼女の目線に込められたものが何なのか、考えさせられてしまいます……。

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