松前廣年

『夷酋列像』イコトイ(乙箇吐壹)作:松前廣年/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』ひょうろく演じる松前廣年(蠣崎波響)史実ではアイヌ絵で有名な凄腕絵師

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『夷酋列像』と共に上洛す

寛政2年(1790年)に『夷酋列像』を完成させた蠣崎波響(松前廣年)は、寛政3年(1791年)、絵と共に上洛を果たします。

『夷酋列像』は、実は江戸でも京都でもすでに話題の作品。

高山彦九郎や大原左金吾が間に入り、ついには光格天皇の天覧に供されることとなったのでした。

これは明らかに、松前藩の政治的パフォーマンスでしょう。

蝦夷とは大和朝廷から討伐される対象です。

あえて蝦夷蜂起を鎮めた報告を江戸の「征夷大将軍」ではなく、京都の天皇に対して報告することは、どうしても政治的な意図を感じさせます。

高山彦九郎は尊王思想家としても名高い人物です。

伊勢崎藩家老・高山彦九郎/wikipediaより引用

そうしたことを踏まえれば、この一連のパフォーマンスは、時代の先駆けにも思えてくるのです。

幕末の京都において長州藩尊皇攘夷派は、孝明天皇の意に応じるべく夷狄を討伐しているという名目を振り翳し、政治に揺さぶりをかけました。

松前藩はまさにその前例を生み出したようにも思えるのです。

光格天皇/wikipediaより引用

こうしたパフォーマンスは、文人としての蠣崎波響の名を確たるものとすることにもなりました。

彼は京洛で文人たちと様々な交流をすることとなり、知名度はうなぎのぼり。

詩才にも恵まれ、当時、名を馳せた漢詩人である六如(ろくにょ)は廣年を「魏公子」になぞらえました。

三国志』でお馴染み曹操、その息子・曹植(そうしょく)を指します。

確かに、詩才のみならず、君主の弟であるという境遇も、曹植と通じる。

松前藩の家老でありながら文人としても名高く、風雅な人物として名を馳せる一方、廣年自身は己を変えていったと思われる動きもある。

なお、当時の京都では円山応挙が圧倒的な人気でした。

円山応挙『金刀比羅宮表書院障壁画のうち竹林七賢図』/wikipediaより引用

彼に師事した廣年は、のちに松前応挙と名乗ったほど。

そしてアイヌを描いた作品は『夷酋列像』がその画業における唯一、最初で最後のものとなりました。

描かれた経緯や天覧の過程を見ていくと、この作品は純粋な絵というよりも、プロパガンダにも思えてきます。

そんな絵は二度と描きたくないと、彼なりに葛藤した末の決断なのでしょうか。

しかしそれが蠣崎波響の代表作とされるのは、なんとも皮肉なこと。

藩主の弟であり、家老であり、画家でもある――松前廣年は、実に数奇な運命のもとに絵筆を執り続けた人物でした。

 


松前藩、ついに上知されてしまう

寛政4年(1792年)、兄の松前道廣が隠居しました。

40歳を目前にした早い身の引き方ではありますが、こうした早い隠居は他藩にも例があり、藩政に口出ししないというわけでもありません。

跡を継いだのは安永4年(1775年)生まれの章廣。

廣年は叔父として、20歳前の若き藩主を支え、導こうとしたのでしょう。

寛政7年(1795年)、章廣の師として大原左金吾を招聘します。

そして翌年の寛政8年(1796年)、事件が起きました。イギリス船・プロビデンス号がアプタ沖(現在の北海道虻田郡洞爺湖町)に出没し、強引に上陸したのです。

このとき藩主の父である道廣は、章廣や家臣の制止を振り切り、自ら出陣するという暴挙に出ました。

もしも艦砲射撃でもされたら、どれほど危険だったか。

道廣は酒色を好む問題ある人物として悪名高いだけでなく、その行状が改められることも無く、藩政に悪影響を与え続けています。

そしてそれが最悪の結果に繋がりました。

藩の対応に不満を抱いていた大原左金吾が、藩を離れると『地北寓談』という報告書を幕府に提出したのです。

そこに書かれていたのは、なんとも荒唐無稽な、道廣とロシアの内通疑惑でした。

道廣がとある藩士の妻に思いを寄せ、女の信頼を得ようとし、秘密を打ち明けるとして漏らした恐るべき野心と計画。

それは松前藩がロシアと通じ、協力を得て徳川幕府を転覆し、己がとって替わる――。

さすがに、ここまで荒唐無稽な話を、確たる裏付けもなしに信じるわけにもいきません。

確かに松前藩に怪しいところは多々ある。

アイヌや商人を中継させない【抜荷】の噂も尽きない。

北の守りが手薄かつ、ロシアやイギリスの異国船が脅威であることも確か。

結果、松前道廣は素行不良と防衛の不手際を咎められ、

文化4年(1807年)に幕府から永蟄居(謹慎命令)を下され、文化5年(1808年)に解かれるまで継続させられました。

幕府の措置は道廣だけに止まりません。

文化4年(1807年)に松前藩は【上知】され、幕府直轄領とされると、松前家は陸奥国伊達郡梁川藩に転封されてしまったのです。

家老・蠣崎廣年ではなく、文人・蠣崎波響として、彼が活動する運命がこの先待ち受けていました。

 


松前藩復帰運動に奔走する日々

松前廣年は、何とかして藩を復帰させるべく、かつて培った文人としての名声と人脈を生かし、幕府に働きかけねばなりません。

家老であり、文人である彼の経歴が、ここでも役に立つことになるのです。

復帰への資金稼ぎのためには、蠣崎波響の作品が役立つ。

要は、自身の書画を売り、鑑賞会を開く――そうして文人ネットワークを通して復帰運動をするのです。

松前廣年『釈迦涅槃図』/wikipediaより引用

文政4年(1821年)、松前家はついに復帰が叶いました。

その翌年、松前に戻ると、江戸へと往来し、お礼のための挨拶回りに励むこととなります。

家老であり文人――その才知を常に生かし続けて、江戸と松前の間を行き来する日々。

そして江戸で病を得て、松前に戻ると、文政9年(1826年)、息を引き取りました。

享年63。

苦労の多い政治家であり、また文人としてのネットワークを活かしきった人物ともいえます。

江戸中期の文化を紹介する『べらぼう』には、実にふさわしい登場人物といえましょう。

兄との愛憎関係にはドラマの誇張もありますが、兄とロシアに翻弄され消耗させられる描写は、端的に彼の人生の一面を示しているといえるのかもしれませんね。

彼の人生と松前藩の動向を見てゆくと、時代の最先端を走っていたようにも思えます。

道廣がロシアと協力して討幕するという話は、あまりに荒唐無稽といえます。

しかし、幕末の薩摩藩は、イギリスから武器を買い付け、討幕を成し遂げてしまったといえます。

前述した通り、異民族討伐を成し遂げ、天皇の権威を政治パフォーマンスに用いることは、幕末の長州藩士が後に続くことになります。

日本の近代化は、海外情勢に目を向けていた西南雄藩が主導したとされます。

海外と接する機会があったという点では、実のところロシアと接触した松前藩が先んじているのです。それが幕府の警戒心を呼び寄せたことは、必然であったのでしょう。

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