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【火付盗賊改方の歴史と仕事】
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一人目の長谷川平蔵こと「宣雄」
時代がくだり、徳川家治が十代将軍に就任。
九代・徳川家重と家治の治世は、田沼意次が政治上で重要なポジションに取り立てられたため【田沼時代】とも称されます。

徳川家治(左)と田沼意次/wikipediaより引用
この時代、現代人が知ることになる“火付盗賊改・長谷川平蔵”の一人目、父である長谷川宣雄(のぶお)が就任しました。
代々当主が「長谷川平蔵」と名乗ることの多かったこの家は、四百石取りの旗本。
旗本としてのルーツを辿ると、【三方原の戦い】で討死を遂げた長谷川藤九郎正長とされます。
そんな三河以来の旗本である長谷川家は、御書院番や御小姓をも輩出する由緒正しい家でした。
石高は高いと言えません。
足高制なくして火付盗賊改となることは難しい家柄です。
宣雄の先代、八代将軍・吉宗にお目見えを果たした長谷川宣尹は、虚弱体質でした。
若くして寝たきりとなった彼には、跡を継ぐ男子がいない。
そこで叔父・長谷川宣有の子(宣雄)を末期養子に迎え、家を継がせることにしたのです。
明和8年(1771年)、先手弓頭を7年大過なく務めた長谷川平蔵宣雄は、火付盗賊改方に就任しました。
「メイワク火事」の犯人を逮捕した宣雄
翌明和9年(1772年)2月29日――江戸は南西の風が吹いていました。
この日、目黒行人坂から出火した炎は、あっという間に江戸の街を飲み込んでゆきます。
大河ドラマ『べらぼう』の第1回冒頭も、この「メイワク火事」でした。

長谷川雪堤模『火事図巻』/wikipediaより引用
原因は、火付による出火ではないか?
そう直感した長谷川宣雄は、与力・同心を動員して犯人探しを徹底。
ほどなくして同心が捕らえてきた無宿者の長五郎が、大円寺での放火を自供したのです。
長五郎は親に勘当されて以来、江戸をうろついては犯罪を繰り返す無宿者となっていました。その日もボヤを起こして盗みに入ろうとしたところ、風にあおられ炎は燃え上がり、そのまま逃げ出したというのです。
前述の山川忠義のような火付盗賊改方ならば、この時点で長五郎は火炙りにされてもおかしくないでしょう。
しかし宣雄は、犯行現場である大円寺で現場検証を行いました。
寺の住職は不在だったため、犯人と証人を突き合わせる「突合吟味」はできません。その上で判断してもよいか?と、松平武元経由で奉行所にまで届け出をして、慎重に事件を調べてゆきます。
武元は、宣雄の真摯な態度に感服し、火刑の許可を出しました。
こうして事件は解決し、江戸っ子をも感激させました。
あの規模の大火で、火をつけた犯人が捕まることはそうそうありません。しかもきっちりと状況を調べあげ、自供だけで判断を下していないのです。
実に画期的なことでした。
なお、18世紀当時、自供だけで犯罪捜査していたのは何も日本だけではありません。
世界各地で同様の捜査が行われていて、宣雄のように証拠をつきあわせ慎重な判断で裁くことは、極めて理性的で画期的だと言えます。
『べらぼう』では「あのメイワク火事の犯人を捕まえた!」として長谷川平蔵宣雄の名前が持ち出され、聞かされた側は「へへーっ!」と頭を下げていましたが、それだけの価値がある武勲だったんですね。
そして事件解決が契機となり、宣雄は異例の大抜擢をされました。
【京都町奉行】に任じられたのです。
安永元年(1772年)10月、宣雄は任地の京都へと向かいます。
しかし激務がたたったのか、翌安永2年(1773年)に宣雄は急死。
葬儀は、嫡男である宣以が取り仕切り、彼は父のもとで働いてきた奉行所の与力・同心にこう挨拶をしました。
「各々方、御堅固に勤めをこなしてくだされ。
後年、長谷川平蔵といえば、当世の英傑だと噂されるよう、私も精進いたします。
みなさんが江戸に来られることがあれば、必ず私のもとへ立ち寄ってください」
なんや随分と大口を叩くモンや……当時からそう思われたため、記録された言葉なのでしょう。
父の死により宣以は「平蔵」と名乗ります。
長谷川平蔵宣以がここに登場したのです。
とはいえすぐに火付盗賊改になるのか?というと、そうではありません。
二人目の長谷川平蔵誕生までには15年の期間があり、その“間”の姿は『べらぼう』序盤で描かれましたね。
吉原で花魁・花の井に惚れ込んで、カモにされた宣以です。
彼は父の残した遺産を使い果たし、吉原から足が遠のきました。これは何もドラマの創作でなく、実際に遊んで使い果たしてしまったのです。
しかし、若い頃に無茶をしていた経験が、後にプラスとなるのでした。
長谷川平蔵宣以が「鬼平」になるまでの日々
年代的に『鬼平犯科帳』と入れ替わるカタチで時代劇のヒーローとなったキャラに「早乙女主水之介(さおとめもんどのすけ)」がおります。
1929年から11作発表された佐々木味津三『旗本退屈男』シリーズの主人公。
千石を超える大身の直参旗本ながら、無役なので暇を持て余し、事件に巻き込まれてゆくというもので、『鬼平犯科帳』シリーズが始まる前は、テレビドラマや映画原作の定番でした。

『旗本退屈男』(→amazon)
さて、なぜこの話をしたのか?と申しますと、大言壮語して江戸に戻った平蔵は、旗本でありながら退屈を持て余す境遇に陥ってしまったからです。
早乙女主水之介よりも禄高が低い、リアル旗本退屈男――。
旗本には「役有り」と「役無し」があり、三千石以上は「寄合」で、それ以下は「小普請組」とされます。
江戸に戻った平蔵は「役無し」で、禄高は四百石ですから「小普請組」ですね。
江戸城に登ることもない。
仕事もない。
エネルギッシュで父の英名も背負い、かつ京都で大言壮語してきた平蔵には、かなり辛い日々となったでしょう。
なんせ、平蔵このとき30歳、而立(じりつ)の歳です。
脂の乗り切った身には虚しい日々であり、その鬱屈を晴らすためか遊里に出入りしてはパーッと遊んでしまいました。まさに『べらぼう』序盤の姿ですね。
ドラマでもいったん姿を消し、その後、偽板事件で再登場した際には、退屈男状態は脱しています。
明和4年(1774年)、ようやく旗本のごく一般的なルートである御書院番・小姓組へ配属されていました。
「どうにも性に合わない」と劇中でもそんな風にボヤいており、「奉行所勤務を目指している」と彼自身の口から語られています。
彼はようやく、自分の目指す道へのルートが開けてきました。
天明4年(1784年):徒歩組の指揮官を取る西丸徒頭
天明6年(1786年):番方(武官)の要職・先手弓頭就任
こうした役職を経ていなければ火付盗賊改方にはなれず、任期中に大きな事件も起きました。
十代将軍・徳川家治が急死し、その信頼を得ていた田沼意次が失脚してしまうのです。
田沼派と後任者・松平定信派の政治闘争はその後も続き、江戸城は内も外も大変な状態に陥ってしまいました。
天明年間は火山噴火に大飢饉と、民の生活を苦しめる災害が続発しています。

浅間山の天明大噴火を描いた「夜分大焼之図」/wikipediaより引用
町人の不満という煮えたぎった油に、家治死後の混乱が火をつけたようなもの。
江戸の街では大騒擾が起き、まさに無政府状態のようなとんでもない事態に陥りました。儲けを貪っていたとされる商家が襲われ、略奪が横行していたのです。
奉行だけでは抑えきれぬ中、先手組弓頭である長谷川平蔵宣以にも、出動が命じられます。
このとき際立った活躍を遂げ、彼の名前は幕閣中枢まで届きました。
松代定信としても、しぶしぶ彼を火付盗賊改方に据えるほかありません。
宣以には悪評がつきまとっており、その根源は彼が田沼時代に出世していたということが挙げられます。
性格的にも、どちらかといえばアイデア重視、山師の時代とされた田沼時代の申し子のようなところがありました。
定信自身、あるいは彼の目に適った者たちと宣以は、相性があまり良くなかったであろうと思われます。
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