べらぼう感想あらすじ 江戸時代

『べらぼう』火付盗賊改方はなぜ設置されたのか|切迫していた江戸の治安悪化

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火付盗賊改方の歴史と仕事
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二人目の長谷川平蔵こと「宣以」

天明7年(1787年)、42歳の長谷川平蔵宣以はついに火付盗賊改方、当分加役とされます。

翌天明8年(1788年)には加役を免じられながら、同年には再度加役とされ。

彼の就任時期は、治安が悪化しておりました。

終わることのない不況の中、犯罪に手を染める者が出てくる、そんな時代です。

真面目に生きても希望も何もない、ならば太く短く生きてやらぁ!と、自暴自棄になり、短絡的な凶悪犯となるものも出てきます。

一方で、表と裏の顔を使い分けるような知能犯も出没しました。

『鬼平犯科帳』はフィクションでありエンタメとはいえ、それが成立するだけの時代ともいえます。

強盗団が押し入り、殺しも辞さずに荒らして回る不良青年団。

女であれば、年齢を問わずに嬲ってから殺す、強盗兼性犯罪者・葵小僧。

屋根の上を素早く飛び回る、悪の火消し人足。

表の顔は目明かしの頭(与力や同心に雇われた者)でありながら、裏の顔では吉原に女を隠し置く者など。

フィクションに出てきてもおかしくない、「小僧」だのなんだの異名がついた犯罪者が実際にいて、『べらぼう』では葵小僧が登場していましたね。

こうした凶悪犯を捕らえる宣以は、機転が利き、明快な裁きをしてきました。

彼の場合、江戸っ子にとっては恐ろしいから「鬼」ではなく、あまりに強く有能であることから「鬼」とされたのです。

なんせ宣以は、江戸っ子たちの心を掴む豪快で慈悲深い性格でした。

気前がよく、部下に酒食をふるまい、町人が捜査に協力すれば蕎麦をご馳走してくれたといいます。

深川江戸資料館に展示されている江戸時代後期の「風鈴蕎麦」の屋台/wikipediaより引用

彼の家では、毎朝、大釜にたっぷり飯を炊いていました。博打や遊蕩ですってんてんになった遊び人の類が、飯にありつきたくて立ち寄ります。

宣以は、出歩く際には小銭を持ち歩き、物乞いに配る姿も目撃されています。

こうした人脈から思わぬ事件のヒントを聞き、解決することもあったのです。

昭和の刑事ドラマでは、取り調べの際、刑事やカツ丼を取ることで口を割らせる場面が定番でした。宣以の温情も、それと似た効果があったんですね。

自らが裁き、刑死したものの菩提を弔う慈悲深さもありました。

そりゃあ、江戸っ子に人気が出るってもんで。

「今大岡(※現代版大岡越前・名奉行)とはあの人のことサ!」

「本所の平蔵さま、ありがてえや!」

江戸っ子たちはうっとりと彼を讃えるようになりました。

京都での大言壮語から十年以上を経て、確かに「長谷川平蔵」の名は英雄のものとして知れ渡るようになったのです。

一方、そんな宣以に「胡散臭い奴だ」という評判もつきまといました。

気前の良さや優しさなんてパフォーマンスだ、ろくに字も読めない奴のくせに!と囁く声もあったのです。

宣以は、有能で公明正大、実にいい男でしたが、パフォーマーとしてあまりに立ち回りがうますぎるという点が「胡散臭い」としても認識されたようです。

抜擢した松平定信も、宣以の「山師」気質を疎ましく感じていました。

松平定信の肖像画

松平定信/wikipediaより引用

 


無宿者を減らし更生させる人足寄場

宣以の偉大なところは『鬼平犯科帳』の世界の外にもあります。

なぜ、人は悪事を働くのか?

根っからの悪党などそうそうおらず、食うに困ってのことではないか?

そんな先進的な考えがあり、寛政元年(1789年)、宣以は松平定信に【人足寄場】の設置を建言しました。

江戸石川島に無宿人(住所不定の者・犯罪者となるケースが多い)、刑期を終えた者を収容し、寄場建設に動員したのです。

『江戸名所図会』右ページ中段より上にある島に石川島人足寄場はあった/国立国会図書館蔵

これが実に画期的な提案でした。

作業をさせなら建築業に必要な技術を教え込み、人足寄場を出てからも手に職をつけ食べていけるようにとりはからったのです。

医療施設もあり、病気や怪我に倒れたものは手当を受けられました。

幕府も、こうした犯罪者更生と労働を兼ねた制度を模索していましたが、長谷川平蔵宣以はさらに一歩進んだものといえる。

世界史的にも画期的な事業でした。

例えば近代イギリスの【救貧院】は、名前こそ「貧しき者を救う」となっていますが、現実は懲罰的な要素が強く、劣悪なものでした。

明治時代初期の網走監獄も、囚人を労働力とする点では共通していながら、その境遇は、江戸時代以下だったのでは?とすら思わされます。

思えば、田沼時代が終わったあと、江戸っ子たちは「これで世の中がよくなる!」とはしゃいだものです。

しかし現実は甘くない。

松平定信がいかに改革をしようと、どうにもなりません。

宣以も、そんな世の中には苦しめられています。定信の志も理解しています。苦しい中でも少しでもよくしたい。

そう思えばこそ、知恵を絞って【人足寄場】をどうにかしようとしてました。予算が減らされても平蔵は知恵を絞り、なんとか続けたのです。

生真面目な定信からすれば、宣以はどこか大ボラを吹くような、「山師」じみたところがあるように見えると先ほど記しました。

しかし、そういう者でなければ「人足寄場」などできないと、後に彼は振り返っています。

そしてその成果は、やがて見えてきます。

江戸の無宿人の数が減ったのです。

長谷川平蔵には、松平定信統治下での治安回復という大きな成果となりました。

そして軌道に乗ったと見なされたのでしょう。

寛政4年(1792年)、平蔵は人足寄場を解任。

寛政3年(1791年)には江戸町奉行が空席となっていましたので、「次は平蔵様にちげぇねぇ!」と胸を躍らせる江戸っ子もいたとされますが、そううまくはいきません。

間の悪いことに、寛政5年(1793年)、平蔵が信頼していた松平定信が失脚してしまうのです。

そしてその2年後の寛政7年(1795年)、長谷川平蔵宣以は病に倒れました。

11代将軍・徳川家斉から「瓊玉膏」(けいぎょくこう)を賜るも、思うように動けない以上、火付盗賊改方を辞任するしかありません。

それからわずか三日後、平蔵は亡くなりました。

江戸のために駆け抜けた、五十年の生涯でした。

令和の現在、東京の隅田川沿いには高層ビルが建ち並んでいます。

現在、佃と呼ばれるエリアに、かつて平蔵が指揮をとった【人足寄場】がありました。

東京を代表するウォーターフロントが、江戸時代は犯罪者更生を担う場所であったのです。

 


幕末へ向かう中、江戸関東の治安は悪化する

長谷川平蔵宣雄と宣以の活躍は見事なものです。

彼らを目指し、火付盗賊改方が奮闘するかと思っていると、期待を裏切られます。

むしろ後任者は宣以が江戸っ子から絶賛された行動を、パフォーマンスだと苦々しく書き記すことになります。

治安も悪化する一方です。

特に関八州と呼ばれる江戸近郊の悪化は著しく、住民は自衛の必要性を痛感させられるほどでした。

こうした自衛のために生み出された流派が、新選組でおなじみの【天然理心流】です。

江戸時代、剣道はあくまでスポーツであり、武士が礼を学び、心身を鍛えるためのものでした。

しかし【天然理心流】は凶悪犯に立ち向かう実践の剣術であり、相手を無力化させるために確実に殺傷する技や、集団戦術をも身につくものとされてゆくのです。

のちにこの【天然理心流】を身につけた多摩出身の青年たちが、新選組として京都の治安を守ることとなります。

天然理心流
幕末最強の剣術は新選組の天然理心流か?荒れ狂う関東で育った殺人剣 その真髄

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話を火付盗賊改方に戻しましょう。

黒船来航以来、やはり治安は悪化し続けます。

過激な攘夷思想を身につけた青年たちは【志士】と名乗りました。

世直しだのなんだの言えば、目先の格好はつくものの、やってることは結局テロリズム。

なんせ大老である井伊直弼が、江戸の街で襲われて殺される時代が到来しました。

「桜田門外の変」を描いた様子/Wikipediaより引用

この成功に遅れをとるまいと、志士たちは幕閣中枢まで襲撃し殺そうとします。

横浜に居留地ができ、外国人が暮らし始めると、志士は彼らを標的にし出しました。

幕府はこうした外国人警護にも人員を割くこととなり、負担は増大するばかり。

そんな殺伐とした世情は、江戸っ子がこよなく愛する浮世絵にも反映されます。

人気絵師であった歌川国芳の没後、その門下でもトップスターともいえる落合芳幾・月岡芳年の作品に『英名二十八衆句』があります。

惨殺場面が揃うグロテスクなものですが、これは何も絵師の猟奇趣味ではありません。

版元が「無惨な絵でやってみよう!」と判断し、江戸っ子が「こういうのが欲しいんでぇ」と思うからこそ、成立したのです。

国芳は弟子たちに「喧嘩や火事があれば見に行け」と教えていました。

真面目な芳年は生首をスケッチし、【上野戦争】でも現場を絵に描き残したとされています。

なんとも殺伐とした世の中となったものです。

月岡芳年『英名二十八衆句 直助権兵衛』

月岡芳年『英名二十八衆句 直助権兵衛』/wikipediaより引用

幕府は制度の立て直しに取り組みました。

文久2年(1862年)、それまで加役であった火付盗賊改方は独立した役職とされ、任じられた者の中には“イケメン”としてしばしば話題にのぼる池田長発も含まれています.

池田長発/国立国会図書館蔵

しかし、彼らが活躍できる余地はもはやありませんでした。

それほどまでに治安が悪化していたのです。

そんな殺伐とした中、幕末のぶっとび犯罪者カップルも誕生しています。

旗本・青木弥太郎と、吉原桐屋の遊女・賑(にぎわい)であった辰。

別名を「雲霧のお辰」といい、悪事を働く仲間でもありました。弥太郎が戯れにこの辰に生首を持たせると、こう返したとか。

「血が垂れちまう、手拭いを寄越してくんな」

なんとも度胸の座った女です。

彼女は明治以降、毒々しい実録もののヒロインとしてフィクションにも登場。

青木弥太郎は囚われて、石抱きのような拷問をされても耐え抜きました。

そして維新の動乱の中、釈放されて世に放たれたのです。

江戸の治安は、もはや幕府だけでは守りきれません。会津藩が京都を警護したように、江戸は庄内藩が警護することとなりました。

そんな彼らに、最後の凶悪犯罪集団が襲いかかります。

慶応4年(1868年)、土佐藩の思惑もあり、徳川慶喜大政奉還を行いました。

無血のうちに徳川の世は終焉を迎えたわけですが、どうしても戦を始めたい連中がいる。

会津藩に怨念を抱く長州藩。

徹底的に幕府を潰したい好戦的な薩摩藩上層部。

そして日本で内戦を起こし、アメリカ南北戦争で余った武器を売り捌きたい、イギリスはじめとする西洋列強です。

しかし大政奉還が無事に済んでしまえば、もはや戦争は起きない――そう頭を悩ませた薩摩藩は、おそるべき手を思い付きます。

薩摩御用盗です。

薩摩藩士や攘夷志士を募り、江戸および関東近郊で凶悪犯罪を続発させるのです。

江戸の民衆を襲い、殺し、金品を奪い、犯人たちは薩摩藩邸へと消えてゆく。こうして挑発を続けていれば、いずれ幕府も動かざるを得ないだろう――そう目論んだのです。

薩摩御用盗は、漫画および時代劇『いちげき』でも描かれていますが、あまりの凶悪犯罪に、江戸警護を担当する庄内藩はしびれを切らし、ついに薩摩藩邸を襲撃しました。

彼らの狙いはあたったのです。

真面目に京都を警護した会津藩と、江戸を守った庄内藩は、江戸っ子の人気を集めていました。

その二藩が朝敵と名指しされると、奥羽越列藩同盟が立ち上がり日本は内戦・戊辰戦争へ突入するのでした。

かくして迎えた御一新のあと、奇怪な歴史が展開されます。

江戸の街を襲っていた薩摩閥出身の川路利良が、初代大警視として警視庁を指揮。

その川路のもと、薩摩藩士が羅卒(らそつ・巡査)となって江戸改東京の街の平和を守ることとなるのです。

いくらなんでもそりゃねぇだろ!

山田風太郎は『警視庁草紙』で、警視庁に挑む元同心を描いております。

漫画にもなりましたので、ご興味のある方はぜひ手に取ってみてください。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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