ということで、本日は猫の歴史と各時代ごとの愛猫家達についてまとめてみました。
教科書に出てくるようなエライ人から「誰それ?」といいたくなるような人まで。
昔から猫の虜になった人は世界中にいたようで……まずは起源から確認してみましょう!
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原産地は古代エジプト 女神もいる
猫の原産地はエジプト周辺といわれています。
ただし、現在見つかっている最古の飼育例らしきものはギリシャ・キプロス島。9,500年ほど前、要人と思しき立派な墓の中で、猫の骨が見つかったのです。
生贄なら家畜、死後のお供なら人間でしょうから、恐らくは「可愛がっていた猫を一緒に埋めてあげたんだろう」ということになっています。
そのとき猫は生きていたのか?
殺して無理やりお供をさせたのか?
あるいは猫が死んだ悲しみのあまり、主が自害して一緒に埋葬されたのか?
チョット気になるところですが、そこまでは研究されていないようです。
一方、原産地の古代エジプトでは【バステト】という猫の顔をした女神がいます。
犬と同様に珍重されていたのでしょう。
楯に猫の絵を描いて敵を追い払ったこともあるとか。ネコミミ・猫しっぽに萌えていたわけではないでしょう。多分。
所変わって中国やヨーロッパでは、猫は稲や麦の精霊と考えられ、同じくありがたい動物と受け取られていたとか。
ネズミを追い払う(食べる)からですかね?
日本に渡来したのは弥生時代頃らしいってことですが、文献にハッキリと出てくるのは飛鳥時代。
奈良時代には仏典をネズミから守るため、中国から一緒に運んできたことが記録されています。
平安時代あたりからは誰それがぬこに萌えていた……もとい、愛猫家であったという記述がたびたび出てきます。
いよいよ怒涛の愛猫家ラッシュに入ります。
調べててドン引きした人も何人かゲフンゲフン。
愛猫家の自分もどん引き?! 日本史の愛猫家列伝
上記の通り、猫は渡来した生き物ですから、当初はとても珍しく、高貴な人物しか飼うことができませんでした。
日本で高貴な方と言えば、当然、皇室。
そのため、日本の愛猫家は当初天皇家の方々だけでした。
記録に残っている中では、宇多天皇の日記『寛平御記』が日本における最古の飼育例とされています。
「父上から黒猫をもらったよ。他の猫は薄墨色みたいな感じだけど、この子は墨みたいな真っ黒でめちゃくちゃ可愛いよ!(中略)座ってると黒い宝石みたいに綺麗だよ!それからそれから(中略)ある日話しかけてみたけど、やっぱり言葉はわからないみたいだったよ」(気持ち悪くない程度の意訳)
『寛平御記』は一部しか残っていないこともあってこのくだりは有名なのですが、よりによってここが残るとは宇多天皇も思っていなかったでしょう。
まさか愛猫の可愛さを伝えるために霊になって守ったとかそんなバカな。
皇室には珍しいほどの仲良し夫婦・一条天皇と中宮定子も愛猫家でした。
「命婦のおとど」という枕草子にも記載された猫がいます。
命婦とは女官の官名ですので、おそらく雌猫だったのでしょうね。
この猫が、ある日、犬にいじめられたのを見て一条天皇がブチ切れ、その犬を折檻した上、島流しにしたといいますからかなりの猫バカだった様子が窺えます。
その犬はボロボロになっても宮中へ戻ってきたそうで。
「女官も天皇も哀れに思った」と記録されているのですが、その後どうなったのやら。
江戸城はネコがつくった????
時代が飛びまして。
最初の江戸城を作った太田道灌には猫に助けられたという逸話が伝わっています。
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あるとき、道灌は敗戦からの帰還中、道に迷ってしまいました。
モタモタしていると追手に見つかるか農民達の落ち武者狩りに遭いますので、悠長なことは言っていられません。
しかし戦の後の疲労で右も左もわからず、途方に暮れていたそうです。
そこへ現れたのが一匹の黒猫。
彼(?)はまるで「おいでおいで」というように招くしぐさをしたので、道灌は不思議に思ってついていったそうです。
猫の行く先には「自性院」というお寺があり、道灌はしばらくの間身を隠すことができました。
そして無事帰還した後「あの猫がいなかったらワシは今ここにおらん、礼をしなくては!」ということで、自性院にその黒猫を祀る「猫地蔵」を建てた――。
というお話ですね。
自性院も猫地蔵も新宿区西落合に現存していますので、周辺に御用の際は立ち寄ってみるのもいいでしょう。
鬼島津もネコ萌え じゃなく鬼だった
豪傑のイメージが強い「鬼島津」こと島津義弘も愛猫家と伝わっております。
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と言っても、単なる萌え萌えではなく、いかにも武将らしい理由がありました。
猫の目は時間によって大きさが変わることに着目し、時間を計るため朝鮮の役の際、7匹の猫を連れて行ったそうです。しかし……。
渡海先では島津義弘の嫡男が病死。
兵の多くも寒さや兵糧不足に苦しめられたため、猫たちも全頭揃っての帰国はできませんでしたが、生還した2匹は今も猫神として祭られています。
ただの道具と思ってたらそんなことしなかったでしょうから、少なからず猫に感謝していたんでしょうね。
猫の目の大きさが変わるのは明るさによるものなので、時間を正確に計れたのかどうかは疑問もありますが、当時は蛍光灯とかないですからたぶん大丈夫ではないかと。
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