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【相撲の歴史】
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江戸時代……6名のスター力士たち
相撲人気の高まりとともに、スター力士も誕生しました。
以下に代表的な6名の力士を表記いたします。
◆明石志賀之助
下野国宇都宮出身で寛永年間頃に活躍。日本相撲協会が初代横綱に認定している。四十八手を整備したとされ、朝廷からも「日下開山」(無敵の芸能者)の称号を受けるほど。身長251センチ、体重184キロ ※数字は当時の誇張あるいは誤記があるかもしれません
◆第2代谷風梶之助
陸奥国宮城郡出身。安永から寛政年間に活躍し、第4代横綱となった。19才で江戸に出てきて、その巨大な体格と力強さで、連戦連勝を誇るも、流感に罹り、44才で死亡。身長189センチ、体重169キロ
◆小野川喜三郎
近江国京町出身。谷風梶之助と同時代に活躍した。第5代横綱。徳川家斉のリクエストで、谷風と対戦したこともある。176センチ、116キロと小兵ながら、流れるような技で観客を魅了した
◆雷電為右衛門
信濃国小県郡出身。寛政から文政年間に活躍した伝説的な力士。長い相撲の歴史の中でも驚異的とされる勝率九割四分八厘を誇る。ただし、横綱にはなっていない。身長197センチ、体重169キロ
◆阿武松緑之助
能登国鳳至郡出身。文政から天保年間に活躍し、第6代横綱となる。173センチ、135キロ。慎重な性格でよく「待った」をかけるため、当時は「ちょっと待った」と言った相手に対して「阿部松かよ」と返すのが流行したとか
◆稲妻雷五郎
常陸国河内郡出身。阿武松と同時期に活躍した、第7代横綱。188センチ145キロ。阿武松とは対称的で「待った」が嫌いな性格。阿武松と稲妻の二人はライバルとして有名になる
こうした力士は現在においてもその名が知られており、まさにレジェンド級。
例えば宮城県では谷風の像が造られており、今も町の人々に親しまれています。
全国各地から2メートル級の大男、怪力の力士たちが集う相撲。
まさに超人対決、人気最高頂のスポーツでした。
幕末……不知火か雲竜か
横綱の土俵入りというと、「不知火型」と「雲竜型」があります。
※不知火型土俵入り(白鵬)
※雲竜型土俵入り(鶴竜)
この土俵入りの型は、いずれも幕末の人気力士が由来です。
雲龍久吉(1823-1890年)は、 筑後国山門郡出身の第10代横綱でした。
8才で両親を失った苦労人で、弟妹の成長を見届けてから、力士の道へ。デビュー直後から圧倒的な強さを誇り、人気抜群となります。
一方、不知火光右衛門(1825-1879年)は、肥後国菊池郡出身。第11代横綱です。更にはスタイル抜群、色白のイケメンで、土俵入りの美しい姿が大人気となりました。
この二人の土俵入りが素晴らしく、人気を二分したために「不知火型」、「雲竜型」として定着したのですが……、
「不知火型」は雲竜の型。
「雲竜型」は不知火の型。
なんと、途中で入れ替わったそうです。うーん、ややこしい。
さて、雲竜と不知火が現役だった頃の幕末は、動乱の時期です。
力士も巻き込まれなかったわけでもなく、大坂の力士が新選組と喧嘩して殺傷される事件も起きています。
そして迎えた明治時代。
社会システムも文化風習もまったく新しい時代を迎えた日本で、相撲の歴史も終わってしまうんじゃないか?という史上最大の危機を迎えます。
明治時代……「裸体禁止令」で存続危機
明治維新のあと、文明開化によって日本の伝統芸能も変革を迎えます。
相撲もまた、例外ではありません。
キッカケは「裸体禁止令」でした。
ここでいったん江戸時代を振り返ってください。
当時の浮世絵や幕末の写真を見ると、飛脚や大工等が【褌一丁に鉢巻だけ】といった、ほぼ半裸の状態で街中を平然と歩いていた様子が確認できます。
江戸のお洒落に敏感な若者は、アンダーヘアーを毛抜きで抜いていました。
なぜかというと、褌姿になったとき、ハミ毛が女子から「サイテー!」と思われてしまうからです。ビキニラインならぬ褌ラインの処理ですね。
と、このように露出度が激しくとも、江戸時代の人々はなんとも思いませんでした。
日本の気候は夏場は蒸し風呂状態ですし、現在のようなスーツよりも、褌一丁で過ごすくらいが快適であったのでしょう。
ところが、幕末になって西欧諸国を訪れた日本人たちはショックを受けます。
欧米には半裸の通行人なんていなかったのです。
「日本の街並みからだらしない半裸の連中を追放しなければ、いつまでたっても欧米列強に仲間入りできない!」
そう焦った明治新政府は「裸体禁止令」を発布。
かくして相撲が槍玉にあげられるのです。
「だいたい、太った男が褌一丁でぶつかるなんて、野蛮にもほどがある。西欧列強から見たら何と思うことか!」
それまで日本人が楽しんできた相撲を、突如として「恥ずかしい後進的な娯楽」としてしまったのです。
さらに、大名制度が消滅したことも影響をおよぼしました。大名家と共にお抱えの力士が職を失ってしまったのです。
相撲から離れた力士は大勢いました。
明治維新――それは相撲にとって歴史上最大のピンチだったのです。
明治政府に協力し、天覧相撲でさらに後押し
相撲界は、非文明的という批判をかわすため、積極的に明治政府に協力することにします。
明治3年(1870年)、明治天皇の閲兵式では上位力士が「御旗(錦旗)」を捧げ持つ役割を果たしました。
さらに明治9年(1876年)から11年(1878年)にかけて消防に協力し、消火活動に励みます。
いわば社会奉仕ですね。
この甲斐あって、明示11年には無事警視庁から相撲興行の営業鑑札を得たのでした。
さらに相撲は大きな味方、お墨付きを得ます。
「天覧相撲」です。
相撲の歴史には、天皇家は欠かせないものでした。その伝統は現在まで続いております。
なにせ相撲の起源は、天皇家の祭祀にも関わりがあるものですし、明治天皇の治世には実に9度も開催されたのでした。
天皇がファンとあっては、もはや相撲に「非文明的だ!」という悪口が浴びせられることもありません。ますます人気が高まります。
そんな明治時代。
このときの相撲界は「梅常陸時代」と呼ばれる、梅ヶ谷と常陸山のライバル時代でした。
小兵で、なんと168センチ、158キロしかなかった梅ヶ谷は、穏やかな笑顔がチャームポイント。技能重視の巧みな取り口でした。
一方の常陸山は174センチ、147キロ。バランスのとれた体格に、猪突猛進型、激しい相撲を得意としていました。
両者は、正反対のキャラクターでライバルとして大人気になります。
驚異的な強さを誇った常陸山ですが、なぜか梅ヶ谷だけには勝てないという状況でして。これが好カードとして観客を熱狂させたのです。
相撲の醍醐味といえば、何といっても鎬を削るライバル同士の攻防でしょう。
江戸時代も、明治時代も、そしてそのあとも、観客はその対決に熱狂していたのです。
初代の「国技館」建設 そして雨天中止がなくなった
明治時代までの相撲と、現在の相撲。
その大きな違いのひとつに、かつては「晴天日のみ興業されていた」ということがあります。
野球のように雨天中止がありえたわけで、天候次第で場所が長くなってしまうことも。
雨が降ったから今場所は32日……なんて今からすればギョーテンの状況が当時は普通でした。
こうした状況に対し、興行側も対策を求められ始めました。
そして明治42年(1909年)。
初代「国技館」が完成するのです。
どうでしょう。ほれぼれとするような荘厳さですよね。
和洋折衷の建物は、なんと1万6千人も収容。それまでの露天興業では3千人ほどしかいなかった観客が、5倍以上まで増加したのでした。
現在の国技館は1万1千人ほどの収容人数ですから、それよりも多かった計算で、まさしく近代的なスポーツ施設です。
明治初期に風前のともしびであったことが嘘のような話。
相撲は、実質的国技としての座を確かなものとしたのです(日本には国技の法的整備がありません)。
それと同時に、国技館の完成は神事という色彩を弱めて、より近代的なスポーツとした一面もあったと言えるでしょう。
大正14年(1925年)の優勝制度の誕生も、国技館以来のことです。
銀色の賜杯は、やや遅れて昭和2年(1927年)から登場します。
この完成して間もない国技館をわかせたのは、突っ張りの名手である横綱・太刀山でした。
怪力の一突き半で相手を吹っ飛ばすことから、ついた名前が「45日の鉄砲」。一ヶ月半=45日という洒落ですね。
あまりに対戦相手が吹っ飛ぶことから、観客は恐怖すら覚えたとか。
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