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戦火のあとに生まれた「スウェーデン体操」
まずは以下の動画をご覧ください。
なんだか体育の授業にある「器械体操」に近い感じですね。
現在ですと、運動の形式は提唱者名で呼ぶことが多いものです。
しかし、かつては国ごとに方式を呼ぶことが多かったのです。
例えば馬術は、
人為馬術(ドイツ式)
自然馬術(イタリア式)
中庸馬術(フランス式)
というような分類がなされておりました。
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スウェーデン体操は、その名の通りスウェーデンで発達したものです。
創始者はペール・ヘンリック・リング。
リングの生きた時代のヨーロッパは、フランス革命とナポレオン戦争に巻き込まれておりました。
体操と関係ないでしょ?
と思われるかもしれませんが、前述の通り、体操は兵士の基礎体力に繋げるべく考案されており、決して無関係とは言えません。
では、その鍛えなければならない状況とはいかなるものだったのか?
それがナポレオン戦争なのです。
当時のスウェーデンは、中立を保っておりました。
が、そうは言ってもいられないほど切迫してきたヨーロッパの実情。
特にイギリスは強引な姿勢で北欧諸国に迫ります。
「皆さ〜ん、中立って、いつまで眠たいこと言っているの? フランスと取引するってことは仲間ってことかね。ナポレオンを潰さないなら、こちらからボコるけどいい?」
そう言って、スウェーデンの同盟国デンマークとノルウェーに迫ります(1801年)。実際、デンマークの中心都市・コペンハーゲンは、イギリスの最強提督・ネルソンの艦隊に襲われ、炎上させられる始末でした。
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世界史を専攻されてない方は、ちょっと驚かれるかもしれませんが、イギリス海軍の歴史を遡れば、彼等がとても英国紳士だなんて呼べません。
実質、海賊だった時代もある。
そして強いから手に負えない。
日本も決して無縁ではなく、イギリスから因縁をつけられ、長崎で同海軍に襲われたことがありました。
それがフェートン号事件です。
※これ以上はマトメ記事をご参照ください
海賊行為で世界を制覇~イギリス海軍の歴史が凄まじくてガクブルです
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体操を学んで帰国したリングは……
1804年。
リングはデンマークで、ナハテガルから体操を学び、帰国しました。
時代はナポレオン戦争の真っ最中です。
コペンハーゲン海戦から三年が過ぎていて、もはやスウェーデンも高みの見物というわけにはいかない状況。フランス・ロシアに敗北を喫しており、改革を迫られておりました。
このあとスウェーデンは、ナポレオンの元部下にして姻戚関係にあったベルナドットを国王に据えて、ナポレオンにとどめを刺す過程で大きな役割を果たします。
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このような大動乱をくぐり抜けると、戦争に巻き込まれた者たちは自国の将来について頭を悩ませます。
動乱の中心にあり、大改革を迫られたフランス。
宿敵フランスを下し、大英帝国へと驀進するイギリス。
ロマノフ朝の黄昏が見え始めたロシア。
スウェーデンも、同じく変革を迫られました。
そこで体育教師であったリングも、国民の心身を壮健にしてこそ新たな国作りではないのか?と考えたのです。
かくして政府に
「これからは、国民の体力を向上させねばなりません!」
と建言。
1814年に「王立中央体操学校」を設立させるのです。
そこで行われたリングの体操は、
医療的体操
軍人訓練体操(兵式体操)
教育的体操
美的・表現的体操
の四部門に分かれておりました。
スウェーデン体操は別名「医療体操」とも呼ばれるほど解剖学と生理学に基づいており、健康促進の効果もあるとされます。
リングがスウェディッシュマッサージの創設者とされるのもこのためです。
現在も人気があるのは医学的知識を元にリフレッシュする方法を研究したからでしょう。
それが当時は先進的なものとして世界各国に広まり、日本も含まれていました。
永井以外に、この体操を日本に伝えた主なメンバーは二人。
本体育会体操学校(現在の日本体育大学)教授の川瀬元九郎と、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授・井口阿くり(いぐち あくり)です。
このあたりから、永井のスタンスも見えて来ませんか?
『いだてん』において、スポーツを楽しもうと呼びかける嘉納治五郎。
それに対して、生真面目に「身体を鍛えてこそ!娯楽はちがう!」と訴え、健康を損なってはならないと訴える永井。
永井がスウェーデン体操を習ったと思えば、納得できることなのです。
おまけ:坪井玄道とドイツ式体操
明治初期、日本の教育現場ではアメリカの医師であり教育者であるジョージ・アダムス・リーランドが伝えた「ドイツ式体操」が主流でした。
実は、この背景に、東京高等師範学校も大いに関わっております。
東京高等師範が誇る教育者の一人として、サッカー殿堂入りも果たしている坪井玄道(つぼい げんどう)がおりました。
坪井はペリー来航の歳である嘉永5年(1852年)生まれ。
動乱の時代にあって医学を学ぶため、江戸で英語を身につけた秀才です。
明治4年(1871年)に大学得業生、翌明治5年(1872年)には文部省出仕。
師範学校係として、東京師範学校創設に関わると、アメリカから招かれた教育者マリオン・スコットの通訳を担当したのです。
さらに坪井は、明治11年(1878年)創設の「体操伝習所」で教師となり、アメリカの医師であるリーランドの通訳を行い、彼が紹介したドイツ式体操を学びます。
この体操が「普通体操」と呼ばれるようになり、明治初期の基準として定着。
かくして当初はドイツ式が広まりました。
明治33年(1900年)から明治34年(1902年)にかけて。
坪井は自ら、ドイツ、フランス、イギリスに留学し、イギリスから卓球を導入、同時にスウェーデン体操も修得してきます。
そればかりか日本の体操教育、女子体育発展にも尽力しました。
坪井が「学校体育の父」とされているのはそうした功績のためでしょう。。
明治初期の日本教育界において体操指導を確立した人物といえます。
坪井の留学からの帰国後にあたる明治30年代から、スウェーデン体操が主流となっていくのでした。
文:小檜山青
【参考文献】
『東京教育大学百年史』鈴木博雄
『国史大辞典』