東京高等師範学校――略して東京高師。
ちょっと古めかしい、その名を初めて聞いたとき「高校? それとも何か専門の教育機関?」と勘違いされる方もおられるとか。
それも致し方ないことでしょう。
実はこの学校、とある大学の前身で、現在では全く異なる名称となっております。
筑波大学です。
答えを聞いて「なるほど〜!」となるか「東京関係なくない?」となるか。
関東以外の方には馴染みが薄いかもしれませんが、この東京高等師範学校は設立時から
・教育
・スポーツ
・グローバル人材の育成
等々、現代にも通じる教育理念を掲げた教育機関でもありました。
大河ドラマ『いだてん』では、東奔西走する嘉納治五郎氏の拠点ともなっており、日本のスポーツ界に絶大なる影響を与えたと言っても過言ではありません。
本稿では、そんな東京高等師範学校の歩みをマトメてみたいと思います。
教員を育成するための機関として
明治5年(1872年)。
新政府による学制発布に先駆けて、日本初となる【官立師範学校】が昌平坂学問所跡地に開かれました。
師範=教員。
つまりは学問を教える教師サイドの能力を身につけさせることが目的でした。
しかし、立ち上げ当初から困難にぶち当たります。
明治7年から明治8年頃になると、国立と県立の師範学校が対立し、さらには明治政府が慢性的な財政難にも苦しんでいて、存続すら危ぶまれたのです。
実際、県立の師範学校は次々に追い込まれます。
明治10年(1872年)、大阪、宮城、新潟、愛知、広島、長崎の師範学校が廃止。その危機は東京にすら及んだほどです。
これに対して、東京師範学校(当時の名称・後に東京高等師範学校へ)は優秀な生徒を招き入れ、高度なカリキュラムを実施することで切り抜けました。
明治11年(1873年)には、伊沢修二、高峯秀夫という校長が米国留学経験を取り入れ、さらにスキルアップを目指します。
知勇兼備の校長を迎えよう
この後、東京師範学校には続けて知勇兼備の校長が就任します。
明治19年(1886年)。
森有礼文部大臣のスカウトを受け、山川浩陸軍大佐が就任(同年、高等師範学校へ)。
山川といえば、戊辰戦争や会津戦争、そして西南戦争で大活躍した、生粋の元会津藩士です。
性格も穏やかとは程遠く、そのオラつきっぷりも魅力的な人物として知られます。
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「なぜ、そんなオラつき会津っぽが校長に!?」
そう突っ込みたい気持ち、わかります。
いや、彼は単なるオラオラではなく、その本質は知勇兼備の将でした。
つまり頭もよく、そして強い。会津時代のあだ名は「知恵山川」です。
会津の藩校・日新館で学び、和歌を得意とする知性もありました。
実は、前述の高峯秀夫も会津出身です。
というのもその知性は幕末において際立っており、かの吉田松陰も日新館を見学したほど。
賊軍と呼ばれ明治時代に辛酸をなめていた会津出身者でしたが、政府としてはその知勇は惜しく、彼らに声を掛けることがあったわけです。
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教育界ならば差別を受けない――。
会津出身者としても、その道に進む者が多くおりました。
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軍人となっていた山川自身も大佐で止まり、少将まではあと一歩。
当時の陸軍は、会津の仇敵である長州閥の山県有朋が頂点に君臨しており、東軍出身者は息苦しいものがありました。
それゆえ校長就任の話に興味を持ったのでしょう。
そもそも山川自身も教育に関心があり、福島県立会津高校の創設者のひとりとして名前があがるほどです。
山川は1886-1891年の間、高等師範学校で校長を務め、その後、陸軍少将を経て貴族院議員になりました。
嘉納治五郎、スポーツを奨励
大河ドラマ『いだてん』で主要な役どころであった嘉納治五郎は、明治26年(1893年)、校長に着任しました。
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山川浩校長→高峯秀夫校長(2度目)に次ぐ後任。
嘉納は柔道家としてだけではなく、教育者としても頭角を現していました。
彼の優れた指導法は、
「高師の嘉納か、嘉納の高師か」
と呼ばれるほどだったのです。
当時まだ普及しておらず、教育有害論すらあった球技等のスポーツを取り入れたことも、彼の功績です。
押川春浪や「天狗倶楽部」のように、スポーツマンでありたい明治の青年たちは、周囲からの厳しい目線にさらされ、それだけでも消耗してしまうもの。
しかし、嘉納の教え子たちはむしろいきいきとスポーツを修得できました。
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東京高等師範学校の生徒は、最低でも一つのスポーツに親しんでこそ――それが嘉納の流儀でした。
結果、彼の指導の下、錚々たるアスリートが輩出されます。
金栗四三(陸上長距離走)
野口源三郎(陸上長距離走)
茂木善作(陸上長距離走・箱根駅伝選手)
吉岡隆徳(陸上短距離走)
工藤一三(柔道)
岡部平太(柔道)
太田芳郎(テニス)
彼らのような日本スポーツの黎明期を牽引する者が輩出されたのは、嘉納の指導あってのこそ。
こののち、東京師範学校は名前や形態を変貌させてゆきます。
ざっとその変遷を表でマトメておきましょう。
元号 | 西暦 | 名称 |
---|---|---|
明治5年 | 1872年 | 師範学校 |
明治19年 | 1886年 | 高等師範学校 |
明治35年 | 1902年 | 東京高等師範学校 |
昭和24年 | 1949年 | 東京教育大学 |
※昭和4年(1929年)設立の東京文理科大学を中心とし、東京農業教育専門学校・東京体育専門学校・国立盲教育学校・国立聾教育学校を統合、新制の【東京教育大学】として発足 | ||
昭和53年 | 1978年 | 筑波大学の発足に伴い閉校 |
現在に至るまで、筑波大学はスポーツが盛んな大学として知られています。
明治以降の「文武両道」の流れを作ったのは、まさに嘉納と東京高等師範学校が始点なのです。
スポーツ&グローバル目線を重視する
嘉納が生きた明治時代とは、チャンスがあるようで実は厳しい、そんな時代でした。
江戸時代以前のように、家を継いでいればよいものでもありません。
総理大臣になるか、博士になるか、富豪になるか。
そんな野心を燃やし、勉学に励む青年が溢れていたのです。
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嘉納もその一人でした。
彼が当時の教育者である新渡戸稲造あたりと違うところは、
「健全な肉体あってこそ!」
と信じていたことでしょう。
喧嘩に負けないため柔術を会得する中で、その思いはますます強まりました。
勝海舟との出会いも、この精神を後押ししております。
「何をするにしても、人間ってのは身体壮健でなくちゃいけねえよ」
この教えは、学問だけではなく武道を修めた武士として勝の実感がこもっています。
現代にも通じることで、体調不良に苦しんでいたデスクワーカーが、筋力トレーニングを始めたところ心身ともにスッキリした、なんて体験談がありますよね。
嘉納の中では、一見関係のない要素が結びついていました。
「心身を鍛えれば、国際的にも負けない!」
そんな考えもあったのです。
いやいや、いくら何でも筋肉万能論過ぎるでしょ、とつっこみたくもありますが、理由もあります。
彼は鍛え上げた柔術で、巨漢のロシア士官をバタバタとなぎ倒したことがあるのです。
身体を鍛え、英語はじめ学問を学び、グローバル人材を育成し、日本の国際競争力をアップ!
そんな教育論が嘉納の持ち味であり、東京高等師範学校から筑波大学まで貫き通す理念であるのです。
ゆえに嘉納が、IOC委員としてオリンピック招致に尽力しても、何の不思議もありません。
若い頃は、富豪なり政治家なり、そんな野心を抱いていた嘉納。
しかし心身を鍛えていくうちに、教育者として国際舞台で活躍する日本人を育てあげてこそ人生ではないか、そんな境地に至ります。
彼の目標は、優秀な指導者を育成することでもありました。
金栗はじめ、嘉納の教え子は指導者としても頭角を現している人物が多いのもそのせいでしょう。
“柔道”のイメージがどうしても強い嘉納ですが、教育者としても極めて先進的、かつ慈愛と先見性に富んでいたのです。
日本の近代スポーツ史を牽引する
そんな東京高等師範学校には、嘉納治五郎だけではなく、多くの優れた体育教師がおりました。
日本初の体操教師・坪井玄道が就任したのも、東京高等師範学校です。
明治29年(1896年)、坪井はフートボール部(現:筑波大学蹴球部)に就任。
その功績から、日本サッカー殿堂入りを果たしました。
スェーデン体操を学んだ川瀬元九郎や永井道明も、東京高等師範学校で体育指導を実施。
この体操は、大正時代の日本教育現場で普及します。
このように東京高等師範学校はスポーツ黎明期から現在に至るまで、日本には欠かせない教育機関であるのです。
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文:小檜山青
【参考文献】
『東京教育大学百年史』(→amazon)
『国史大辞典』