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南樺太の歴史~戦前の日本経済に貢献した過去をゴールデンカムイと知る

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失われた樺太

太平洋戦争が末期に入ってゆくと、日本政府は終戦を望むようになります。

昭和19年(1944年)、サイパンで日本軍が大敗、内閣は水面下で和平を検討し始めます。

仲介者として、ソビエト連邦へ目を向けられるようになりました。

その際は、見返りとして南樺太を譲渡する――そんな案が、進められていたのです。

日本がソ連に期待した根拠は「日ソ中立条約」にありました。

しかし、これを過剰に頼りにしたことは、さすがに甘かったのではないか?と思われる点もあります。

当時、ソ連を侵攻したナチスドイツと日本は同盟国。敵の敵は味方どころか、日本は敵の味方と言えるわけです。

ポツダム宣言にスターリンが署名しなかったことも、米英と対立しているのだと、日本政府を安堵させました。

ところが実際は、独ソ戦争を終えた後、スターリン以下ソ連が、極東へ侵攻する手はずを着々と進めていたのです。

昭和20年(1945年)、それまで比較的平和であった樺太にも、戦火が迫り始めました。

2月頃から、米艦が流氷の切れ目に出現。

5月29日「天嶺丸」、6月15日「第一札幌丸」が魚雷により撃沈されます。浜辺には「USA」と書かれた袋も流れ着き始めました。

7月2日、海豹島が米軍の砲撃を受け、海軍兵士5名が死亡します。

そして、これを皮切りに、米軍による砲撃や鉄道への地雷設置がなされるようになったのです。18日には「宗谷丸」が撃沈され、150名以上が犠牲となりました。

北樺太の国境付近でも、ソ連軍の動きが目撃されるようになりました。

海からはアメリカ。
陸からはソ連。

樺太にいた第88師団は、混乱するばかりです。

アメリカとソ連、どちらに備えるべきか?

ハッキリした命令は伝わらぬまま、結局、彼らはソ連の侵攻を迎えることとなりました。

そして8月11日。ついにソ連軍が国境越え。

彼らが自動小銃や大砲で武装していたのに対して、日本軍はわずかな小銃や機関銃、空き缶や瓶で造った手榴弾しかありません。

どうにか半日以上は持ちこたえたものの、国境は破られてしまいます。

8月15日。
日本本土で玉音放送が流れても、樺太の戦争は終わりません。

住民たちは、女性までもが義勇軍を組織させられることもありました。老人や女性と子供から避難が始まりましたが、取り残される人も大勢おります。

逃げ惑う人の頭上には、空爆が容赦なく降り注ぎますした。

逃げるために、足手まといとなる我が子を捨てる親すらいたほどでした。

真岡郵便電信局事件
真岡郵便電信局事件で散った乙女たち ソ連軍の侵攻前に集団自決

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8月25日、ソ連が大泊を占領し、宗谷海峡が封鎖されました。

樺太の戦争は、こうして終わりを告げたのです。

逃げ切れずに残された人々もおりました。

シベリアの強制収容所まで連行されて、抑留された人も少なくない状況(シベリア抑留)。宗谷海峡封鎖後、密航して帰国できた人もおりましたが、全員がそうではありません。

終戦後、日本領南樺太からソ連領サハリン州なったこの地では、日本人が無国籍者として暮らすこととなりました。

 

公式引揚げと戦後

昭和21年(1946年)10月。

サハリン州民政局により、公式の引き揚げが始まります。それまで日本人は収容所に収監され、苦しい生活を送ることとなりました。

結局、この公式引き揚げは、昭和24年(1949年)まで続けられました。中には、帰国できなかった人々もおります。

病気に罹る等、様々な事情で残らざるを得なかった人々。

日本国籍を取得できなかったニヴフ、ウイルタの人々。

そして、朝鮮半島の人々です。

南樺太には、朝鮮半島出身の人々が多数おりました。

林業や炭坑採掘のために連れて来られた人もいれば、出稼ぎのためにやって来た場合もありました。

かように南樺太は、日本人のみならず、樺太アイヌ、ニヴフやウイルタといった先住民、朝鮮人、ロシア人と、様々な民族が入り乱れて発展してきた島なのです。

混乱と暴力の中、命を奪われてしまったのも、日本人だけではありません。

そして戦後。
残留した日本人と朝鮮人が結婚する例が、サハリンでは多く見られました。

現在でも、逃げられなかった日本人の子孫が、日系ロシア人としてサハリンに在住しています。

朝鮮系ロシア人はさらに多く、コミュニティが形成されております。

サハリンでは、コリアン料理店や食材が人気を集めているほど。絵葉書には、日本風の建物が印刷され、神社や製紙工場の跡が残されています。

それはこうした歴史をふまえたものだったのです。

最盛期、日本国籍を持つ人々が、実に40万人も暮らしていた――南樺太。

漁業や林業で、日本に資源を提供し続けた場所でありながら、戦争下では見捨てられたような扱いを受け、悲劇が起こっています。

そのことだけではなく、現在、樺太の存在感が日本で低いことも、虚しさを感じてしまいます。

ゴールデンカムイ』は、そんな樺太を主人公たちが冒険する土地に選びました。

これをきっかけに、読者を中心として、樺太への関心も高まることを、切実に願います。

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文:小檜山青

【参考文献】
原暉之・天野尚樹『樺太四〇年の歴史 四〇万人の故郷』(→amazon

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