オリンピック負の歴史

1936年ベルリン五輪/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

オリンピック負の歴史 スポーツと政治・経経・戦争は切り離せず

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銀幕での悲しき再会、競技場からの出征

ベルリン五輪のあと、記録映画『民族の祭典』が公開されると、日本中は熱狂に包まれました。

 

こんな素晴らしい五輪が、もうすぐ日本にやって来る――そんな興奮に包まれていったのです。

スポーツは素晴らしい。日の丸のためならば死んでもいい。そんな熱狂を味わった者が日本中にいました。

しかし、そう簡単に熱狂できない者もおりました。

背後にある政治色に違和感を感じる人もいたのです。

それ以上に、悲劇的な再会を果たし、涙をこらえきれない者もいました。

中国戦線で戦死したはずの弟が、入場行進に映っている——そのことに気づき、あまりに皮肉な再会に愕然としてしまった人も、当時の日本にはいたのです。

戦火に散るアスリートは、もっと増えていきます。

スポーツの熱狂とともにあった施設も、皮肉な使われ方をします。

それが学徒出陣——。

出陣学徒壮行会(1943年10月21日)/wikipediaより引用

その壮行会が開催された施設の多くが、明治神宮外苑競技場をはじめ、スポーツで使用されてきたものでした。

かつてスポーツに声援を送っていた若者たちが、銃を担いで行進することとなったのです。

 

「平和の祭典」に落ちる政治の影

第二次世界大戦を終えると、日本にも徐々にスポーツの息吹が戻って来ました。

とはいえ、対戦前夜のファシズムとスポーツの結びつきを考えると、そこに向けられるまなざしは慎重にならざるを得ません。

五輪を誘致すべく田畑政治らが苦労したのも、まさにこうした警戒心が世界中に渦巻いていたからこそ。

田畑政治の生涯 いだてんもう一人の主役とは?【東京五輪前に辞任】

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今度こそ、オリンピックを平和の祭典とすべく、世界中が力を合わせるようになっていったのでした。

しかし、そうはならないこともあります。

1972年のミュンヘン五輪では、惨劇が発生しました。

パレスチナ人テロ集団「黒い九月」が、イスラエル選手団を襲撃。犯人も含めて17名が犠牲となっています。

ロッド空港で犠牲者の棺を乗せたイスラエル軍用車/photo by David Eldan wikipediaより引用

このあと、熾烈極まりないイスラエル側の報復作戦が繰り広げられるのです。

 

冷戦や政治対立は、その後も、五輪に暗い影を落とし続けました。

1976年:モントリオール→アパルトヘイトを行う南アフリカ参加への抗議によるボイコット、「二つの中国」問題による中国のボイコット

1980年:モスクワ→ソ連のアフガニスタン侵攻への抗議によるボイコット

1984年:ロサンゼルス→米軍のグレナダ侵攻への抗議によるボイコット(モスクワボイコットへの抵抗措置)

ボイコットのための不参加という、政治的な意見表明がなされるようになったのです。

五輪ボイコットを色分け(赤がロス、青がモスクワ、黄色がモントリオールの各大会をボイコット)/wikipediaより引用

パレスチナ問題にせよ、冷戦にせよ。

その根をたどれば第二次世界大戦があります。いくら政治と無縁だと言いつのったところで、こうした事実は厳然と突きつけて来ます。

もうひとつ、考えたいことがあります。

いくら政治とスポーツは無関係だと言ったところで、政府からの援助がなければ五輪へと選手は派遣できません。

これはつまり、政府が首を縦に振らねば、スポーツ選手は何もできないということでもあります。

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