樺太の歴史

1930年代の樺太・豊原市と樺太アイヌ/wikipediaより引用

ゴールデンカムイ 明治・大正・昭和

ロシアから圧迫され続けた樺太の歴史 いつから日本じゃなくなった?

明治3年(1870年)2月13日は樺太開拓使が置かれた日です。

受験でもエンタメでも、これまで、ほとんど注目されなかった樺太――しかし最近は注目度が上がってきていますね。

そうです。大人気の漫画アニメ『ゴールデンカムイ』で舞台になり、必然的に樺太の歴史やロシア(日露関係)にも目が向くようになっているのです。

そこは一体どんな場所だったのか?何が起きてきたのか?

樺太の歴史を振り返ってみましょう。

 

北方からの圧力

日本が、ロシアからの圧力を感じ始めたのはいつ頃か?

ハッキリと「外圧」を感じ始めたのは、18世紀後半から19世紀初頭。

三谷幸喜さんの手がけた2018年正月時代劇『風雲児たち』の舞台となった頃ですね。

このころ日本人たちは自分たちの暮らす国以外にも、広い世界があると認識し始めました。

杉田玄白と前野良沢らが『ターヘル・アナトミア』を翻訳出版。

頼山陽はナポレオンを讃えた漢詩『仏郎王歌』(フランス王の歌)を作詩。

葛飾北斎の好んだ藍色がプロシア由来の「ベロ藍」。

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世界で次々に起こる変化は、幕府お墨付きの玄関口・長崎出島から、オランダを通じて流入してきました。

では、ロシアはいつ頃からアクションがあったのか?

というと、これも同じころ、江戸時代終盤に向けての頃です。

 

江戸幕府では割と早くに注目していたが

ロシアからのプレッシャーを最初に感じたのは、東北の人々でした。

『風雲児たち』にも登場した仙台藩士の工藤平助(演:阿南健治さん)。

江戸で幕臣の子に生まれながら仙台藩に仕えた林子平(演:高木渉さん)。

彼らはロシアの脅威を感じ、海防論を唱えます。

工藤は『赤蝦夷風説考』を発表し、同じく林も『三国通覧図説』と『海国兵談』を出版。

早い段階から危機感を説いていますが、海外情報を統制したい幕府にとっては迷惑な話でしかありません。

当時、こうした意見に目を付けていたのは、先見の明ある老中・田沼意次(演:草刈正雄さん)のみでした。

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田沼は、山形出身の探検家・最上徳内を蝦夷に派遣し、調査をスタートさせます。

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間宮林蔵は、間宮海峡を発見。

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さらには大黒屋光太夫などは、漂流の果てにロシアへ上陸、エカチェリーナ二世にも謁見するという驚くべき展開となっています。

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しかし、田沼が失脚してしまうと、ロシア脅威論もまた注目されなくなってしまいます。

これでロシア側も日本との接触を諦める?

って、そんな都合のいい事は起きるハズもなく、さらに時代がくだるにつれ、彼らはついに強硬手段に訴えかけてきます。

 

樺太へ向かう武士たち

日露関係が、二国間において顕在化したのはいつなのか?

それは、幕末に向かってゆく最中「日本が世界の中でのどの位置にあるのか」を意識し始めたころでした。

このころ会津藩では、名宰相・田中玄宰が藩政改革に取り組み、その一環として藩校・日新館が整備されます。

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天明8年(1788年)。

田中は軍制改革に取り組み、長沼流を採用、寛政4年(1792年)には、会津藩の恒例行事である「追鳥狩」が始まりました。

2013年大河ドラマ『八重の桜』第一回で描かれた、鳥を追いかける軍事訓練です。

それから約二十年が経ち、文化4年(1806)になると、津軽・秋田・南部・庄内の東北諸藩に重大な幕命が下されました。

露西亜の暴虐より、樺太を防備せよ――。

このころロシア船が南下し、樺太までやって来ることが度々ありました。

オフトマリ(大泊・現コルサコフ)、クシュンコタン(久春古丹・現コルサコフ)に進出し、運上屋(松前藩アイヌとの交易所)や番屋、倉庫を焼き払い、住民を拉致し始めていたのです。

ロシア側は、普段からこんな危険なことをやっていたのか?というと、そうでもありません。

さんざん通商と開国を要求したにも関わらず無視されたため、実力行使に訴えたのです。

そこで幕府は、東北地方の藩から出動&対応するように命じたのです。

想像してみてください。

『ゴールデンカムイ』では、北海道の気候になれていた杉元すら

「北海道よりも冬が長くて寒いってことか。樺太やばいな」(14巻)

と驚嘆していたわけです。

樺太警備の武士たちは、現地の天候に苦しめられました。

ロシア軍と交戦することはありませんでしたが、厳しい寒さと病気が襲いかかったのです。

津軽藩にいたっては、100名中70名、つまりは死亡率七割超という甚大な被害を出したほどで、その原因は主に悪天候、湿気、病気、野菜不足による栄養失調でした。

「樺太やばいぜ。これはもうどうしようもないな」と、幕府は諦めたか?

否、違います。

「今度は東北の大藩にでも依頼するか」となりました。

 

会津藩士、気合い入りまくっていざ樺太へ!

文化5年(1807年)、今度は東北の大藩である仙台藩と会津藩に、蝦夷地・樺太の警備が命じられました。

仙台藩:2000名 箱館(函館)・国後・択捉

会津藩:1500名 樺太・宗谷・利尻島・松前

会津藩は財政難。

しかも、樺太は未知の土地。

「樺太やばいべした、いぎだくねえな」となるかと思ったら、その逆でした。

会津藩は、樺太警備にはなみなみならぬ意欲を見せました。なんと、幕府にわざわざ志願していたほどなのです。

彼らは東北に睨みを利かせるため、「保科正之を祖として配置された」というプライドがありました。

東北の小さな藩が動員されているのに、会津藩がおいてけぼりでは面目が立たない、自分たちこそ東北諸藩の先頭に立つのだ、という思いがあったのです。

このプライドこそ、幕末の悲劇にも繋がるのですが、それはまた別の話。

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出発前になると、くじ引きで公正に決めたにも関わらず、順番で揉めます。

「せっかぐ戦いさ行ぐのに、宗谷や松前では、ロシア兵と戦うことはねえべ。樺太さいぎでえ」

なんと、樺太が嫌なのではなく、樺太でないと嫌なのだ、という理由ゆえだったのです。

樺太に行けない隊があまりに不満を述べるため、クジの決定は取り消されたのでした。

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