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【佐川官兵衛】
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心やさしき鬼官兵衛さま
明治10年(1877年)、西南戦争が勃発。
佐川官兵衛と警視庁に勤めていた藤田五郎一等巡査は、この時を待っていたと喜び勇みました。
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憎き薩摩藩士を斬る好機到来というわけです。
佐川は、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍。味方に対して厳しく命令を下します。
・物品を購入した際には、きちんと見合う金額を支払うこと
・不正な行為はせず、住民に暴力的なことは絶対にしない
薩軍も官軍も、横暴な振る舞いが目立った西南戦争です。
ところが佐川の部隊は規律正しく、見物にふらふらと来た子供すら可愛がり、こう言うほどでした。
「よしよし、敵の首さ、土産に持って来てやっがらな」
はじめこそおっかなびっくり佐川を迎えていた住民も、だんだんと敬愛を抱くようになったほど。
「さすがは官軍さまだ」そう言い合っていたのです。
敵は鎌田雄一郎 示現流の使い手
3月18日、黒川村。
佐川官兵衛率いる隊は、薩軍と対峙することになります。
激戦の最中、佐川は敵の隊長と見定めた男に、軍刀を抜いて挑みかかります。
敵は鎌田雄一郎でした。
溝口派一刀流の佐川と、薩摩示現流の鎌田です。
剣を構えてにらみ合い、相手の猿叫が響く中、両者は斬り結びあうのでした。
一進一退の中、佐川は胸に衝撃を受けます。
狙撃でした。
剣での戦いと銃撃が混じり合う、この頃ならではとも言える壮絶な最期。
享年47。
「鬼佐川」は、元会津藩士として激闘を戦い抜き、そして斃れました。
訃報を聞き、川路利良も涙したとされます。
あれほど勇敢な鬼の佐川を、もっとよい環境で戦わせるべきだったと、彼は悔しがったのでした。
辞世は、薩軍の待ち受ける地に赴いた朝、明神ヶ池の水を飲んで詠んだとされています。
君が為 都の空を 打ちいでて 阿蘇山麓に 身は露となる
知恵山川(山川浩)と鬼佐川――会津戦争を戦い抜いた二人は、それぞれの戦い方で有名を西南戦争で残しました。
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これもまた、西南戦争の一面と言える歴史なのです。
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文:小檜山青
【参考文献】
櫻井懋『山川浩』(→amazon)
長野浩典『西南戦争 民衆の記《大義と破壊》』(→amazon)
小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 (中公新書)』(→amazon)
猪飼隆明『西南戦争―戦争の大義と動員される民衆 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
野口信一『会津藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon)