こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【山川浩】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
これでは城に入れない!
ただし山川浩は、ただのオラつき家老ではありません。
軍事的才能として発揮されると、おそろしいほど強い将となるのです。
将としての強さは、会津藩の中でもトップクラス。幕末期全体を見回しても、かなりの上位に入るはずです。
日光口から会津に至るまでかなり健闘し、装備や戦況の不利の中でも相当よい戦績をあげました。
水際だった指揮におそれいり、これほどの名将は誰かと、敵の谷干城すら舌を巻いたほど。このことがのちに、彼の運命を変えることになります。
敗北ばかりが続いていた会津戦争において、彼が成し遂げた痛快事が、「彼岸獅子」入城です。
会津に入ったはよいものの、鶴ヶ城は十重二十重と囲まれてしまっている。
これでは城に入れない!
そんなとき、困り果てた山川に、配下の水島純がはあっと驚くような奇策を提案します。
「彼岸獅子を舞わせて目眩しにしてみたらいいんでねが? 城の人も味方だとわかっぺ」
「よがんべ! その策、採用ォ!」
かくして会津の伝統芸能「彼岸獅子」を自軍の先頭で踊らせ、敵の目を欺くことにしたのです。
会津籠城戦では妻も失っている
まるで『三国志』のような奇策……。
もしも失敗したら「何やってんだ、バーカ!」となりそうなところですが、これが無事成功。
敵軍は「なんかヘンな連中いるけど、イベントかもしれないし、まあいっか」と見守るばかりであったのです。
かくして山川浩は、堂々と無傷で援軍を城にまで入れたのでした。
その会津籠城戦で、山川はこれ以上ない悲しみに遭わされます。
不発弾処理にあたっていた妻・登勢が、戦死したのです。
明治維新後、斗南藩に移った山川は、さらに塗炭の苦しみを味わいました。
斗南藩の生き地獄~元会津藩士が追いやられた御家復興という名の“流刑”とは
続きを見る
食糧難は深刻。
山川家がおからを買い占めただけで、藩士からブーイングを浴びることすらありました。それほどまでに飢えていたのです。
妹・咲(のちの大山捨松)を養子に出さねばならないほど、苦しい生活でした。
会津藩家老の娘・大山捨松が辿った激動の生涯~留学後に敵の妻となる
続きを見る
陸軍出仕、やってみないか?
斗南藩での苦難の日々は、廃藩置県後に終わりを迎えます。
山川家はなんとか東京に居を落ち着けたものの、在京会津藩士の面倒を見なければならず、家計は常に火の車でした。
しかし、明治6年(1873年)。ついに時代は動きます。
明治6年(1873年)は西郷隆盛が下野する「明治六年の政変」の年です。
山川浩は、戊辰戦争で対峙した土佐藩の谷干城から陸軍出仕を持ちかけられました。
互いのことを知らずに対峙した戊辰戦争。
谷は、あの優れた会津の指揮官がまだ若い山川であったと知り、陸軍にスカウトしたのです。
殴り合った同士が仲良くなるような、熱い展開ですね。
山川は山本八重と同年ですから、会津戦争時はまだ満24歳に過ぎません。その若さであの戦いぶり――まさに実力は充分でした。
新島八重の軌跡を辿れば幕末と会津がわかる~最強の女スナイパー86年の生涯
続きを見る
「国がこんな大変な時代だ、熊本鎮台在勤とならんか」
山川としては、思うところはいろいろあるものの、非常時であることは痛感しておりました。
それに、谷には深い信頼を抱くようになっていたのです。
断れるはずも、ありません。
こうして山川は、八等出仕し、少佐として西南戦争前夜に熊本鎮台に向かうこととなったのです。
※続きは【次のページへ】をclick!