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【手塚治虫】
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【すごいよ! 手塚先生伝説】
さて、ときには6本もの連載を抱えていた手塚は、どのような日常生活を送っていたのでしょうか。
漫画に関することだけでも「超人」の一言です。それは……。
・超速読家
手塚は「500ページの本を20分で読む」という離れ業を持っていました。
なぜそれで内容が頭に入るのか知りたいところです。それも描き残して欲しかったなぁ。
速読家として有名な人物としては司馬遼太郎がいますが、どちらが早かったのでしょうかね。比べるものでもありませんけれども。
・アシスタントの始まり
ときにベタ塗りを編集者などに手伝わせていたのが、漫画家のアシスタントのはしりになったとか。
アシスタントから経験を積んで漫画家になった人も多いですから、「マンガの神様」だけでなく「漫画家の祖父」と言ってもいいかもしれません。
・ショートスリーパー
手塚はいつも一日4時間程度しか眠らず、全盛期は月に数日しか眠らなかったそうです。
ナポレオンも驚くでしょうね。
それで当時60歳まで生きられたのだから不思議なものです。
良い子も悪い大人も真似してはいけません。慣れる前に多分死にます。
・頭の回転がおかしい
漫画を描きながら、電話で別の雑誌(当然別の漫画)の話をしていることがあったそうです。
一時期医師と漫画家、二足のわらじを履いていたことからしても、異次元レベルに頭が良かったことは間違いありません。
こういう人間としておかしい(褒め言葉)生活をしている中でも、手塚は家庭をとても大切にしていました。
誕生日とクリスマスには必ず家族でレストランに行き、ディナーを楽しんでいたそうです。
また、正月と夏休みにも必ず家族旅行をしていたんだとか。
簡単に真似ができることではありませんが、仕事を言い訳に家族との時間を蔑ろにする人は、一つくらい手塚を見習ったほうがいいでしょうね。家族に限らず「情けは人のためならず」ですし。
「ネオ・ファウスト」は自身の胃がんがテーマ!?
異次元レベルの力を持つ手塚にも、悲しいかな限界は訪れます。
昭和六十三年(1988年)、まず胃を壊して手術を受け、その後も激務を続けていたため、中国でのアニメーションフェスティバル終了直後に倒れてしまったのです。
帰国と同時に半蔵門病院に入院し、診察を受けたところ、重病が明らかに。
この時点で胃がんと診断されていたものの、当時は患者本人に病名告知をしないのが普通だったので、手塚は亡くなるまでそのことを知らなかった……ということになっています。
しかし、自分のプロダクションの社長が来たときに「代わりに病状を聞いてきてくれ」と頼み、結果を聞くと「そうか」と頷いたそうです。
なんだか本能寺の変で織田信長が(相手が明智ならば)「是非もなし」と答えたというシーンを思い出してしまいましたが、医者である手塚ならば少しは見当もついていたでしょう。
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その四日後からは、昏睡から回復する度に「鉛筆をくれ」と言っていたそうですし、最期の言葉も「頼むから仕事をさせてくれ」だったとか。
また、それまで病床で描いていた「ネオ・ファウスト」は、「主要人物が胃がんになり、周囲は知らせないが、本人は気づいていた」というストーリーになっています。
やはり手塚は悟っていたのでしょう。
それでも生きる希望を持っていたからこそ、こうした話を描いて、退院後に「皆あの時教えてくれなかったけど、僕は気づいていたんだよ」と笑って話したかったのではないでしょうか。
「100歳まで描き続けたい」と言っていたそうですし。
仮に、手塚が100歳まで生きていた場合、亡くなるのは2028年。
当然、今も漫画やアニメに携わっていたでしょう。
もしかしたら、東京オリンピックのプロモーションにも関わったかもしれませんね。
考えても詮無きことではありますが、いろいろと期待した上で、惜しい人だと改めて思ってしまいます。
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長月 七紀・記
【参考】
Pen+(ペン・プラス) 増補決定版『マンガの神様 手塚治虫の仕事(クリエイション)。』(→amazon)
TEZUKA PRODUCTION(→link)
国史大辞典
手塚治虫/wikipedia